微視的レアリスムで描き切った神の国
扉を開けた日曜祝日面に広がるのは、壮大にして細密な上下2段12画面の世界です。
まず目に飛び込むのは中央の「父なる神」です。左手に笏(しゃく)を持ち、右手の指は祝福をあらわす形をしています。頭には教皇をあらわす三重の冠、足元にも王冠が置かれていますが、これらは拡大図で見ると気が遠くなるほど美しく細密な表現が施されていることがわかります。
玉座の背後のアーチや衣服、床の縁まで、多くの銘文が書かれています。たとえば神の背後の銘文には「これは神なり、その神聖なる威厳のゆえに全能の神なり」と書かれています。
アーチの前の織物にはペリカンが描かれていますが、これはペリカンが自分の子どもに自分の血を与えて育てると信じられていることから、キリストの象徴の意味があります。
向かって左にいるのは聖母マリア、右にいる緑色の服を着ている人物は洗礼者ヨハネです。マリアは教会の象徴でもありますが、真珠やユリ、バラなどの飾りがついた豪華な王冠をつけていて、そのなかに星や太陽の飾りがあることから「太陽の女」のイメージも表しています。太陽の女は新約聖書の『黙示録』にある「ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた」という記述を典拠としています。このほかにも日曜祝日面の全体を通して『黙示録』で語られるイメージがたくさん描かれています。
たとえば中央の父なる神と洗礼者ヨハネ、マリアという組み合わせを「デイシス」といい、『黙示録』にある「最後の審判」を意味するものです。「最後の審判」は中央に神による審判場面、左右に天国と地獄へ行く者たちなどが大画面で描かれることが多いのですが、審判者キリストと執り成しの洗礼者ヨハネ、聖母マリアという3人を描くだけでも「最後の審判」の象徴であるという意味になります。
3人の下の段には「神秘の子羊の礼拝」の場面が描かれていて、上方の空高く、上段の神のすぐ下に精霊の鳩がいます。祭壇の上にいる子羊は自分の血を流しているキリストの象徴で、縦軸で見ると父なる神、精霊、子なるキリストという三位一体が一直線上に並べられています。このように横軸や縦軸に沿ってそれぞれ読み解くことができる構成が祭壇画の興味深い点です。
また、全体に厳かなミサの様子も表現されています。上段の父なる神、洗礼者ヨハネ、マリアというデイシスの両隣には、教会のミサのように豪華な刺繍の施された祭服を着た天使たちが音楽を奏で、歌っています。
よく見ると左パネルの歌っている天使たちのなかには、ミサでは難しい発声で歌わなければならないため、しかめ面をしたり口を尖らせたりして、苦しそうな顔をしている天使もいます。右パネルにいる6人の天使は当時の楽器のオルガン、ハープ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどを奏でています。
左端のパネルにはアダム、右端のパネルにはエヴァがいます。アダムとエヴァが禁断の木の実を食べたことによる原罪(人間が背負っている罪)は、中央の羊が生贄になることによって贖(あがな)いになるという、救済の物語が語られてもいます。
この絵のアダムの足の裏がちょっと見えていることによって、枠を越えてこちら側に出ているように見えます。また、右腕に日焼けの跡があることから、おそらくモデルを使って描いたのだろうと推察されています。
エヴァのおなかが出ているのは妊娠しているのではなく、北方の女性の理想形でした。1432年に完成しましたが、同じ時代の1427年頃にフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂の中にマザッチョの描いた《楽園追放》のアダムとエヴァと比べると、いかに北方とイタリアが違ったかということがよくわかります。
イタリアは体のつくりなども大まかにとらえ、細部をバッサリ省き、がっちりとした人体表現をします。これに対してヤン・ファン・エイクは毛穴や浮き出た血管など微に入り細に入り描き込み、まるで生きているようなリアルな人間を表現しました。初期のイタリア・ルネサンスと北方ルネサンスが目指したものの違いがよくわかる例です。
アダムとエヴァの上には、旧約にあるカインとアベルの物語がグリザイユで表現されています。アダムの上には弟アベルが祝福される場面、エヴァの上には弟に嫉妬した兄カインがアベルを殺す場面です。