●湖池屋の強さの理由に迫るシリーズ第1回はこちら!
1967年、湖池屋は日本で初めてポテトチップスの量産化に成功する。その3年後には「ポテトチップス ガーリック」「同 バーベキュー」「同 カレー」を発売し、同じ年の12月には新工場(※現在の関東工場)を竣工させる。こうして同社は量産化を機に売り上げを大きく伸ばしていく。
しかし、それから5年後の1975年、カルビーがポテトチップス市場に参入すると、順調だった状況は一変し、湖池屋に転機が訪れる。
大まかだが、このような内容で前回(3回目)、湖池屋の変革の歴史を紹介した。そして、『湖池屋に訪れた転機に対し、「カラムーチョ」が新たな局面をもたらした』というところで、原稿を締め括った。
さて、今回は前回の続きとして「カラムーチョ」をメインに話を展開していくが、激辛ブームの火付け役といわれる「カラムーチョ」も一朝一夕に生まれたわけではない。そこに至るには紆余曲折もあれば、大きな壁も立ちはだかっていた。そうしたエピソードとともに、湖池屋のターニングポイントを支えることになった「カラムーチョ」について、今回と次回、2回にわたって掘り下げていこうと思っている。
米国視察で見つけた「カラムーチョ」誕生の種
では、本題に入ろう。湖池屋が「カラムーチョ」を発売したのは1984年9月のことだ。意外に思うかもしれないが、ポテトチップス市場にカルビーが参入してから、約9年もの月日が経過していたことになる。
結果として多くの時を費やすことになったが、湖池屋は次の一手を、ずっと模索し続けていた。例えば、そんな取り組みの1つとして「ポテトチップス のり塩(以下、のり塩)」の量産化以降、湖池屋は「のり塩」に続く商品の開発に向け、米国の現地視察や市場調査を定期的に行っていた。そして、この米国視察を通じて、同社は「カラムーチョ」へとつながる種を見つけることになる。
「カラムーチョ」が発売された1980年代。当時を振り返ると、日本のちまたでは『米国ではやっているものは、10年後の日本でもはやる』といったことが、まことしやかにささやかれていた。そんな1980年代、米国ではやっていたものは何かと言うと、食ではメキシコ料理が人気を集め、トレンドになっていた。
念のために記しておくが、ここで言うメキシコ料理とはマヤなどの先住民族やアステカの料理をベースに、コンキスタドールの影響を受けて形づくられた本来のメキシコ料理ではない。そこから融合し、派生したものになる。
残念ながら、私はメキシコの料理や歴史・文化に精通しているわけではないので、憶測の域を脱することはできないが、それは肉やチーズをはじめ、トマト、タマネギといった野菜、豆などをチリパウダーやホットソース(サルサなど)で味付けし、トルティーヤなどと一緒に食べるといったものだったと想像する。言い換えれば、日本人にもなじみのあるタコスやチリコンカン、ナチョス、ブリトーなどに代表されるテクス・メクス料理(テキサス風メキシコ料理)を、さらにアメリカナイズしたもの。そのような認識で間違いないと思っている。
少々、メキシコ料理のくだりが長くなったが、当時、米国視察に訪れていた湖池屋の商品開発チーム(以下、開発チーム)も、そんなメキシコ料理に目を留め、当然のごとく、その味を体験することになる。
商品開発が進む中、社内で上がった反発の声
先にも触れたが、メキシコ料理にはチリパウダーやホットソースがよく使われる。どちらもハバネロやハラペーニョなど、唐辛子がベースになっていることから、当然、メキシコ料理には辛いものが多く、その辛さが特徴にもなっている。しかし、メキシコ料理は単純に辛いだけの料理ではない。米国でメキシコ料理が人気になったのも、味という側面から見れば、唐辛子の刺激的な辛さに加え、食材のうまみがしっかり感じられ、そこに辛さとうまみが共存したおいしさがあったからだと、私は推察している。
実際、米国視察でメキシコ料理に出会い、それらを口にした開発チームも“辛くておいしい”という味のキーワードにたどり着き、さらに研究を重ねた結果、唐辛子の辛味とトマトなどの酸味、その組み合わせがメキシコ料理のおいしさの根底にあることを突き止める。
そして、当時は取締役で、現在、湖池屋の代表取締役会長を務める小池孝氏(以下、孝氏)が陣頭に立ち、『辛くておいしいポテトチップス』をコンセプトに商品開発がスタートする。