「ポテトチップス のり塩」のパッケージには初期から西部開拓時代をイメージした幌馬車が描かれている。湖池屋の創業者、故・小池和夫氏に西部開拓時代の開拓者精神、情熱があったからこそ、日本初のポテトチップス量産化、菓子業界初の契約栽培(じゃがいも)などが実現できたと言えるだろう。そして、この開拓者精神は湖池屋の企業スピリッツとして、今でも引き継がれている

●湖池屋の強さの理由に迫るシリーズ第1回はこちら

 日本産のじゃがいもを100%使用し、日本で初めてポテトチップスの量産化に成功した湖池屋。その原点は「ポテトチップス のり塩」にある。「ポテトチップス のり塩」は同社を創業した故・小池和夫氏(以下、和夫氏)が、ある酒場でポテトチップスと巡り会い、そのおいしさに感動したことから誕生する。

 この連載では、その湖池屋を取り上げていくのだが、連載初回の前回は長野県諏訪市の郷里から21歳で上京した和夫氏が老舗の甘納豆屋へ就職。26歳で独立した後、「ポテトチップス のり塩」をつくり上げるまでの足跡をたどった。

 今回はその続編として、ポテトチップスの量産化に至るプロセスをはじめ、完成した「ポテトチップス のり塩」のその後などをエピソードとともに紹介したいと思っている。

 前述の通り、前回の内容にも軽く触れているが、今回は続編になるので“前回はまだ”という方は、一度、第1回の原稿にも目を通してもらえればと思う。

売れれば売れるほど、深まる生産への課題

 では、話を前に進めよう。湖池屋の創業は、今から69年前の1953年。創業者の和夫氏が名字の小池の小の字を、故郷の諏訪湖のように大きく会社を育てたいという願いを込め、諏訪湖の湖に変え、社名を湖池屋とした。

 創業当時の湖池屋は「お好み揚げ」「えびまん月」など、おつまみ系の揚げ菓子を製造・販売する会社だったが、創業から9年後の1962年、「ポテトチップス のり塩」が完成すると、社業の変化とともに、業績も一気に拡大の方向へと動き出す。

 ここで「ポテトチップス のり塩」が完成した当時を振り返っておく。当時、ポテトチップスは高級珍味、高級菓子という存在だったこともあり、ポテトチップスを目にしたり、口にしたことがあるという日本人は少なかった。そうした中、「ポテトチップス のり塩」が誕生したことで、多くの日本人がポテトチップスに触れ、そのおいしさを体験することになる。そして、「ポテトチップス のり塩」は目新しさ、おいしさが評判を呼び、その人気はうなぎ上り。売上げも大きく伸ばすことになるのだが、それと同時に問題が浮上する。

 一般的に商品は売れれば売れるほど、より多くの商品を生産し、十分な供給量を確保しなければならない。これは至極、当り前のことだ。ある意味、それはうれしい悲鳴になるのかもしれない。しかし、当時の湖池屋にそんな余裕は微塵もなかった。

 と言うのも、「ポテトチップス のり塩」が完成した当初、湖池屋の製造現場では職人が両手で大釜を抱えるように持ち、攪拌しながらポテトチップスを揚げていたのだ。それは、まさに手揚げの力仕事で、職人の技や勘といったものも必要とされた。皆さんも容易に想像できるだろうが、工場生産とは程遠く、人力、手作業の製造現場のキャパシティは低い。生産の限界もすぐ訪れることになる。

ポテトチップスが量産化される以前、大釜を使い、職人が攪拌しながらポテトチップスを揚げていた頃の湖池屋の製造現場。当時は手揚げの力仕事で、職人の技や勘といったものも必要とされた