出所:共同通信イメージズ
戦後、トヨタはある経営判断をきっかけに深刻な危機を経験した。その「痛恨の経験」から導かれたのが、「売ってから造る」という受注生産の発想だった。トヨタはどのような危機に陥り、そこからいかにして競争優位を育んだのか──。2025年8月に著書『通史で読み解く自動車の未来』(東洋経済新報社)を出版した神戸大学名誉教授の三品和広氏に、トヨタの転機を生んだ経営判断、そして変化の時代に求められる戦略の視座について聞いた。
経営危機から生まれたトヨタの革命的戦略
──著書『通史で読み解く自動車の未来』では、トヨタが繰り出した革命的な戦略「受注生産」について解説しています。トヨタが受注生産を始めた背景には、どのような出来事があったのでしょうか。
三品和広氏(以下敬称略) 背景にあったのは、トヨタが1950年に気付いた「見込み生産の罠(わな)」です。戦後初期、GHQは「日本をアジアで最も貧しい国にする」という方針を取っていました。しかしソ連との対立が始まると、占領方針を180度転換し、日本を「不沈空母」として経済発展させる必要に迫られたのです。
この方針転換を受けて復興への期待が高まり、トヨタもタクシー需要の拡大を見込んで増産体制に入りました。当時はまだ軍用トラックをベースに乗用車風のボディーを載せた車でしたが、日本社会が闇市経済から脱却しつつある中で、多くの人がタクシー事業に参入する兆しが見えていたのです。
ところが1949年、デトロイト銀行のドッジという人物が日本に派遣され、日本のインフレ抑制のための金融引き締め政策、通称「ドッジ・ライン」を実施しました。この結果、タクシー会社は銀行から資金調達ができなくなり、車を購入できない状況に陥りました。トヨタが「これから売れる」と期待して造りためていた車が、全く売れなくなってしまったのです。
サプライヤーからの支払い要求、従業員への給与支払いに追われ、1950年春にトヨタは事実上の倒産状態に陥りました。最終的には日銀名古屋支店が音頭を取って辛うじて救済されましたが、その条件として創業者の退任が求められたのです。






