2009年9月14日、「盛和塾」富山例会で指導する稲盛和夫写真提供:京セラ(以下同)
20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。
稲盛氏は、強大な影響力を持ちながらも「引き際」を見誤ることを何より恐れ、通例より若くして経営の第一線から退いた。老害を戒め、自らをも律した稀有な経営者の姿に見る、真に健全なリーダーシップとは?
稲盛和夫は何を考え、いち早く経営の第一線を退いたか
経営者は絶大な力を有する。一方、強大な力を持つがゆえに引き際が難しい。老齢を迎えながらも、権力を自らに集中させ、長期にわたり社長の座にとどまり続ける、あるいは会長や相談役として院政を敷くようなケースが後を絶えない。いわゆる経営における「老害」である。
稲盛和夫は、企業を大発展させた創業功労者として、絶対的な権力を持ちながらも、いち早く経営の第一線を退いた。退いた後も、否応なく影響力が残る中で、それを極力表に出さないよう努めた。
経営者にとって最も難しいテーマの一つであろう、経営トップの座からの退場について、稲盛の「変革」を探りたい。
京セラ社長を退いた1986年、稲盛は54歳を迎えていた
若くして社長に就任した稲盛のライフサイクルは早い。京セラ社長の座を譲ったのは1986年10月、54歳を迎えた年であった。
稲盛は会長に就任し、安城欽寿(きんじゅ)が後継社長に就任した。だが3年も経たず、1989年6月に早くも安城から伊藤謙介に社長交代している。このトップ人事には稲盛が影響力を発揮したことから、人事権はじめ経営の実権はいまだ会長の稲盛にあった。
稲盛が京セラの経営の第一線から退く気配を見せ始めるのは、1992年6月に代表権を返上して以降のことである。






