2作同時受賞となった、第70回江戸川乱歩賞受賞作
【概要】
幕末日本。幼いころから綺麗な石にしか興味のない町娘・伊佐のもとへ、父・繁蔵の訃報が伝えられた。さらに真面目一筋だった木挽き職人の父の遺骸には、横浜・港崎遊廓(通称:遊廓島)の遊女屋・岩亀楼と、そこの遊女と思しき「潮騒」という名の書かれた鑑札が添えられ、挙げ句、父には攘夷派の強盗に与した上に町娘を殺した容疑がかけられていた。伊佐は父の無実と死の真相を確かめるべく、かつての父の弟子・幸正の斡旋で、外国人の妾となって遊廓島に乗り込む。そこで出会ったのは、「遊女殺し」の異名を持つ英国海軍の将校・メイソン。初めはメイソンを恐れていた伊佐だったが、彼の宝石のように美しい目と実直な人柄に惹かれていく。伊佐はメイソンの力を借りながら、次第に事件の真相に近づいていくが……。
『遊郭島心中譚』は2作同時受賞となった江戸川乱歩賞作。日野瑛太郎著『フェイク・マッスル』が8月に出て、本書の刊行は10月。遅れたのは、選考員達が改稿を条件にしたためのようだ。
『フェイク・マッスル』の受賞はあっさり決まり、選考時間のほとんどは、この『遊郭島心中譚』の論議に費やされたらしい。この作品が目指した世界観を壊さず、技術的にどう展開すればよりよいものになるか。創作論、技術論などが議論されたのだろう。
選考委員の一人である辻村美月さんが、著者の霜月流(しもつき・りゅう)さんが熱い論議の場に同席できるはずもなかったことを残念がりつつ、自身も「小説を書く者の一人として、大いに勉強になった」と書いているほどだ。
幕末の生麦事件を背景に、父の死の謎を探して横浜の洋妾に
時代は幕末。早くに母を亡くし、父の繁蔵と深川で暮らしていた伊佐は、訪ねてきたお役人に告げられた事件に言葉を失う。
生麦事件の余波で幕府は英国公使館に償金を支払うことに。金箱を運ぶその行列を、繁蔵が襲って強奪しようとしたばかりか、ピストル誤射の犠牲となって虫の息になっていた娘の首を切り落とし、持ち去ったというのだ。
が、繁蔵はすぐ、焼死体として発見される。船饅頭(安価で春をひさぐ女)の苫舟が突然燃え上がり、女は川に落ちた。繁蔵だけが骸となって引き揚げられたという。傍らにあった幕府発行の鑑札には「岩亀楼 潮騒」との文字が……。
「おとっつあんが、強盗とか斬首とか、そんなことをするはずがない」と固く信じる伊佐を、父の弟子だった幸正が訪ねてくる。
職人から周旋業に転身したこの男、口がうまい。父の無念を晴らして名誉を守りたい」という伊佐に、「あんた、横浜で綿羊娘(らしゃめん)にならないか」と持ちかける。
綿羊娘(らしゃめん)とは、綿羊の毛織物「羅紗綿(らしゃめん)」を着て外国人に春を売っていた女達の姿に由来し、外国人の妾になった娘のこともそう呼ぶようになった。かつての師の娘に、洋妾になることを勧めるとは、幸正、相当食えない男だ。
繁蔵が持っていた鑑札の岩亀楼は、開港したしたばかりの横浜港に、幕府が用意した「港崎(みよざき)遊郭」で、豪華絢爛を誇った最大の妓楼。伊佐は横浜に行くため、岩亀楼に乗り込んで潮騒に近づくため、洋妾になることを決意する。
伊佐は幸正に言う。「あたしを横浜に連れていって」、ただし「あたしは、異人の旦那様に決して肌を許しません。身体を差し出さなくても、心を通わせることは、きっとできます」。
当時、横浜の遊女には四つのタイプがあったという。日本人だけを相手にする「日本人館の遊女」、外国人相手の「異人館の遊女」、異人館から異人の居宅に通って夫婦として暮らす「異人館付きの綿羊娘」。
しかし異人館付きのらしゃめんは、幕府のお墨付きゆえ守るべき規則があった。国の秘密をもらすなとか、妊娠出産は御法度とか。異人達は考えた。妓楼を介さず、周旋業者に女性を斡旋してもらったほうが煩わしくない、と。
幸正は講釈を続ける。そこで第四のタイプが出てくる。それが伊佐のような「野良のらしゃめん」だと。幕府が取り締まれば、武器弾薬の取引はなかったことにするなど脅してくる連中ゆえ、侍女だと言い張れば、見逃される。
伊佐は、父の汚名を晴らすという可憐な決意のもと、メイソン大尉の妾となる。伊佐とメイソンが引かれ合ったのは、ともに“石集め”が大好きだったことだ。伊佐のそれは道ばたや海っぱたで拾う石ころで、メイソンのそれは美しい宝石だったのだけれど。
「野良のらしゃめん」は、最もきままで、夫の寵愛を存分に受けられる立場。しかし男が本国に帰る別れの日は必ず来る。本気で愛すれば、愛の荒野の野良になりはてる。このときの伊佐は、そんなことは想像もしていない。