焼け野原の記憶を抹殺して生きようとした人々以前の、もう1本の映画

 とはいえ、読みながらなんとなく察知するのは、このミステリーには『シャイニング』のジャック・ニコルソンのような狂気の男は出てこないだろし、アガサ・クリスティの名作『そして誰もいなくなった』のような、島内住人全員抹殺みたいな惨劇も起こらないだろうということだ。

 冒頭に誰とも特定できない語り手が出てくる。その語り手は華麗なショーが始まる前に前口上を述べる司会者よろしく、登場人物を上空からの視点で紹介。するすると引っ込んで、本編が始まる。

 九十九島の陽光は明るく、梅田翁は上機嫌、物語自体が〈The Show Must Go On〉 の精神で進行していると感じさせるのだ。

 枕の下の遺言の謎は、意外にも役者を目指して劇団の研究生だったことがある遠刈田のシェイクスピア知識で解かれる。昨晩、梅田翁が宴席で「年寄りの祝いなんてものは、悲しみだけ行く手にはあり」と呟いた言葉。あれはシェイクスピアのソネット(14行詩)集の中の文言だ、と。

 読書家だった梅田翁の書架を探すと、やはりシェイクスピア全集の第一巻「ソネット集」があった。新たな遺言書が挟まれている。そこにはこうあった。「一万年愛すは、私の過去に置いてある」。

 過去と来れば、因縁のある坂巻元警部の出番だろう。彼は「多摩ニュータウン主婦失踪事件」を詳しく語り始める。

 手がかりはまだあった。翁は地下のシアタールームに、3本のDVDパッケージをこれ見よがしに放置していた。『砂の器』『飢餓海峡』『人間の証明』。昭和の名作映画だ。元タレントで結婚を機にきっぱりと芸能界を引退した葉子夫人は、どれも大好きな映画だと、うっとりとしながら反芻する。

「『砂の器』に出てた島田陽子さんの魅力的だったこと」「私、本当はああいう映画に出られるような女優になりたくて芸能界を目指したんですよ」「『飢餓海峡』の左幸子さんの演技なんてもう、思い出しただけで鳥肌が立っちゃいそう」

 昭和という時代を象徴する映画は何を示唆しているのか? 半世紀近く前の多摩ニュータウン主婦失踪事件に翁は本当に関係していなかったのか? 血のように赤い「一万年愛す」というルビーは本当にあるのか? なにより姿を消した翁は自死を遂げたのか? それとも誰かの手で殺されたのか。とすればその動機は?

 これらの疑問が有機的に連結して、このミステリー列車は進む。ミステリーは通常、作者が仕掛けたレッドヘリング(偽の手がかり)に騙されないよう、一行一行目を丹念に追う緊張感を強いるが、この『罪名、一万年愛す』は、ただただ物語という列車の揺れに身を任せればいい。洞窟アドベンチャーまで用意されている。

 最後にいっこ。貧困、飢餓、生き延びるための手段、その中にあった、忘れられないひとひらの温もり。たどり着くエビータ風の(←気にせず流し読みして下さい。はい、レッドヘリングです)結末に、そっか、これは焼け野原の記憶を抹殺して生きるという保身に抗った、もう1本の映画だったのだなあということだった。忘れがたいということが、これほどの重みをもっていたとは。

 忘れがたいということが、これほどの重みをもっていたとは。映画化されるといいですね。