パリ五輪、高校野球やMLB(メジャーリーグベースボール)など、今年の夏も注目のスポーツイベントが目白押し。そこで今月は、スポーツビジネスの裏側、スター選手や家族の努力や苦悩、スポーツサイエンスなど、様々な視点から「スポーツの今」を読み解く5冊をご紹介します。

選・文=温水ゆかり

1963年6月5日、力道山、田中敬子さんと結婚 写真=木村盛綱/アフロ

戦後復興のシンボル”力道山を妻の目から描く、傑作ノンフィクション

『力道山未亡人』
著者:細田昌志 
出版社:小学館
発売日:2024年5月31日
価格:1,980円(税込)

【概要】

第30回小学館ノンフィクション大賞受賞作。 “戦後復興のシンボル”力道山が他界して60年。妻・田中敬子は80歳を越えた今も亡き夫の想い出を語り歩く。しかし、夫の死後、22歳にして5つの会社の社長に就任、30億円もの負債を背負い、4人の子の母親となった「その後の人生」についてはほとんど語られていない──。

〈未亡人である敬子には、相続を放棄する手もあった。
 しかし、それは考えなかった。
「そんなことを、主人は絶対に望んでないって思ったんです」
敬子は社長を引き受けることにした〉(本文より)

「力道山未亡人」として好奇の視線に晒され、男性社会の洗礼を浴び、プロレスという特殊な業界に翻弄されながら、昭和・平成・令和と生きた、一人の女性の数奇な半生を紐解く傑作ノンフィクション。

 

 2024年の小学館ノンフィクション大賞を受賞した『力道山未亡人』。この本の中に流れる時間はタイトルから想像するより膨大だ。日本統治下にあった朝鮮半島生まれの百田光浩(ももた・みつひろ/力道山の戸籍名/1924~1963年没)史であり、プロレスの興亡史であり、プロレスという切り口から見た政治経済史、裏社会史のようでもある。

 未亡人とは旧姓田中敬子さんのこと。日本航空の国際線エアガール(客室乗務員のこと)時代に、力道山から猛烈なアタックを受け、22歳で大物政治家がズラリと居並ぶ世紀の結婚式を挙げるも、半年後の12月15日、身重の身体で未亡人になってしまった。

 力道山は翌年開かれる1964年の東京五輪を二つの理由で心待ちにしていた。

 一つはIOCが韓国と北朝鮮の統一チームを作るよう勧告を出していたことから、二カ国同時国交回復が成し遂げられるかもしれないと希望をつないでいたこと。

 二つ目は故郷に残してきた女性の産んだ娘が、北朝鮮代表のバスケットボール選手としてやってくる可能性があったこと。

 現実には北朝鮮と韓国は折り合えず、二カ国としての参加になった。しかも北朝鮮はオリンピック村での処遇を巡って大会をボイコット。開催の2日前に、選手団全員で引き揚げている。

 南北統一が宿願だった力道山は、この騒ぎを見ずに済んだ。しかし、政界に多くのコネを持った力道山なら、違った方向に進めることもできたのではないかという人もいる。

 

「金はいくらかかってもいい。何とか助かるようにしてもらってくれ」が最期に

 閑話休題。冒頭で力道山死傷事件の顛末が詳述される。1963年12月7日、浜松で日本プロレスの年内最終興行を終えた力道山は予定を変更し、翌8日の朝に帰京。昼に赤坂の自宅(リキアパート)で高砂親方を迎える。「大相撲アメリカ場所」の団長に任じられた親方が、現地の興行関係者に顔が利く力道山を頼ってきたのだ。

 かつて自分を冷遇した角界に頼られたとあって、宴を用意して迎えた力道山は終始上機嫌だったという。夕方には全員を引きつれ、料亭「千代新」で飲み直し、夜9時からのTBSラジオ「朝丘雪路ショー」の収録に向かう。すべて徒歩圏だ。

 が、酔っ払いすぎていて収録はボツに。力道山はそれでもまだ飲もうと、ラジオのスタッフも誘って「コパカバーナ」に向かう。夜の大使館と呼ばれ、無名女優だった根本七保子がインドネシアのスカルノ大統領に見初められ、第三夫人「デヴィ・スカルノ」となった高級クラブだ。

 が、力道山の気が途中で変わる。7、8人と人数が多かったためだろう。行き先をコパカバーナより広いナイトクラブ「ニューラテンクォーター」に変更。事件はそこで起こった。

 トイレからロビーに抜ける狭い通路で、住吉連合の若いヤクザともみ合い、ナイフで腹部を刺されたのだ。力道山は表沙汰になることを嫌っていったん家に戻るが、説得されて再び山王病院に戻り、緊急手術を受ける。この時点では順調に回復するはずだった。

 が、12月15日の朝、容態が急変。再手術が行われ、午後4時の段階で手術は成功と言われる。敬子さんは6日ぶりに帰宅して入りたかったお風呂に入るが、妙な胸騒ぎがしてならない。

 夜9時に「奥さん、すぐ来て下さい」との電話で病院に駆けつけると、全員が押し黙っている。医師が沈黙を破って「ご臨終です」と言うのを聞いて、敬子さんは気を失い暗闇に墜ちた。

 手術室に消えるとき、夫が「俺はまだ死にたくない」「金はいくらかかってもいい。何とか助かるようにしてもらってくれ」と言ったのが、夫婦の最期の会話になってしまった。

 こんな悲劇の幕開けの後、敬子さんの生いたちに遡る部分が、戦後復興期の活力そのもののようで明るく楽しい。健康優良児で、中3のとき神奈川県代表として、岐阜で行われた青少年世界赤十字世界大会に参加。

 そこで駒場高校に通う大宅映子と知り合い、彼女に感化され、初めて聞く大学名だったけれど、自分も国際基督教大学を目指そうと決める。高2のとき「横浜開港百年祭」の記念英語論文コンテストで優勝するなど、敬子さんは外交官になるのが夢だった。

 しかし受験に失敗。女性が浪人するなんてめったになかった時代に、娘に浪人を許した神奈川県警・茅ヶ崎署長の父上のリベラルさは見上げたもの。一方、駿台予備校に通う総武線の中でふと目に留めた「客室乗務員、臨時募集」の貼り紙を見て、試験度胸を付けるために応募。みごと15名の合格者の一人となった敬子さんの優秀さも天晴れではないか。

 著者の細田昌志氏に、敬子さんのことを書くよう勧めたのは、前著の取材で訪ねた安部譲二氏だった。安部氏と敬子さんは日航同期。安部氏は著者にこう語ったという。

「たったの半年で後家さんになっちまったんだよ。再婚もしなかった。不思議な人生だと思わないか」「相当苦労したらしいよ。何せ力道山は莫大な負債を抱えていたからさ。それを全部背負わされたんだもん。彼女の長い年月を書いてほしいんだ。読みたいな」