政治家と大物ヤクザが暗躍する世界に投げ出された身重の23歳
力道山の死後、敬子さんには社長業など受け継ぐ気はなかった。しかし顧問弁護士がやってきて、グループ企業全ての代表取締役になってもらうと言う。出産も控え、無理ですと応えると「これは相続です。法的にそうするしかありません。それとも相続を放棄しますか」と。
力道山には、入籍しなかった女性との間に、短大生の長女、高校生の長男、中学生の次男と三人の子がいた。彼らの生活や将来のこともある。敬子さんは相続することにした。
リキアパートやリキマンション、松濤の土地や相模湖畔、箱根、油壺の土地など、合計30億円(現在の価値にして約100億円)ほどあった。が、ゴルフ場、レース場、ホテル建設などの計画が進行中で、約8億円(現在の価値で約30億円)の負債も。
早く引退してビジネスを手がけたがっていた力道山は、5つの会社をグループ会社にしていた。1)日本プロレス興行、2)マンション建設や土地売買を行うリキエンタープライズ、3)レストランやボーリング場を経営するリキスポーツ、4)ボクシングジムの経営と興業を手がけるリキボクシングクラブ、5)相模湖畔に一大レジャーランドを建設しようとしていたリキ観光開発。
身重の23歳で、5つの株式会社の、5つの異なる業務をこなさなければならなくなった敬子さんだが、これはほんの序の口。長い長い道のりの始まりだった。
夫の死に続いて、自民党副総裁で力道山亡き後も敬子さんの後見人役を務め、日本プロレス協会コミッショナーでもあった義理と人情の政治家、大野伴睦(1890~1964年没)が亡くなったのも痛手だった。
ちなみに最近の自民党裏金事件で、5000万円超という飛び抜けた環流額で起訴された岐阜の大野泰正(やすただ)氏は、伴睦の孫。世間的にはそれほど知られていなかった参院議員が、なぜあれほど高額のキックバックが受けられたのか。血の流れと金の流れの相関関係に思いを馳せてみるのも面白い。
大野に替わって自民党副総裁とコミッショナーの両方の座に就いたのは川島正次郎(1890~ 1970年没)だった。元警察官僚の川島は、政界とヤクザの癒着を断ち切るために、ヤクザの資金源が興行にあることに目を付ける。
力道山の死後、日本プロレス協会(会長・児玉誉士夫)には副理事というポストが新設され、東西の大物ヤクザが就任していた。西の利権を一手に収める山口組三代目組長の田岡一雄と、東の利権を持つ東声会の町井久之(鄭建永)会長である。
川島は、田岡と町井を排除するために、こんな理屈をひねり出す。田岡や町井が副会長でいるのは未亡人の後ろ盾になるためだ。未亡人が協会と密接な関係にある日本プロレス興行株式会社の社長から降りれば、彼らが副会長にとどまる理由もなくなる。
川島の意を受け「代表の座を譲っていただきたい。自分達で経営したいのです」と切り出した幹部レスラー達に、敬子さんは長男が大学を卒業したら代表を返すという条件付きで、念書を取ることもなく、あっさり承知する。本音を言えば肩の荷が下りた。が、これはある種の謀反だった。
新社長に就任した豊登や幹部レスラー達は、興行収益やテレビの放映料など毎月莫大な収入があったにも関わらず、グループ企業の資金繰りの相談にも応じようとせず、いつの間にか内緒で事務所も移し、利益を自分達で独占していたのだ。
年利1億円の返済地獄も乗り越えた、天性の明るさと自立心と聡明さ
敬子さんは夫の夢だったゴルフ場建設に必要な資金を確保できず、競走馬の育成牧場を経営していた人物から高利で金を借りる。が、焼け石に水。結局ゴルフ場建設は断腸の思いで中止を決断した。これでまた一つ肩の荷が下りたかといえば——
あらたな地獄が待っていた。相続税と力道山時代に発生した追徴課税を足した4億5千万(現在の価値で約18億円)の返済地獄である。相続税は10年年賦でゆっくり返せばいいと呑気に構えていた。側近がけげんな顔で「年利が1億円ほど付きますが、いいんですか」と言ったときは、ひっくり返りそうになってしまった。
「どうして教えてくれなかったの!」。知らなかった自分も悪いが。知っていたら日本プロレスの経営権を豊登達に無償で譲ったりしなかった。ほぞをかんでも、もう遅かった。
「レスラーにとって金と人情は別」(ナイトクラブのオーナー)というのは、いささか職業差別的な物言いに聞こえなくもないが、夫が亡くなったあと、残された妻が軽く扱われるようになるのは男社会では避けがたい。
豊登(道春)にとって、無償で敬子さんに会社を譲らせることなど、赤子の手をひねるようなものだったのだろう。その豊登はギャンブルにくるい、会社のカネを億単位で使い込んで仲間達から放擲されてしまうのだから、結局因果は巡るのだ。
が、悪人ばかりではない。中には手をさしのべてくれる紳士もいる。追徴課税の原因になった松濤の1117坪の土地は、三菱グループの不動産会社が買い取ってくれた。生前、現在の東急文化村あたりの土地を五島慶太と争うなど、力道山が土地を見るときに発揮したビジネスセンスは鋭い。もし生きていたら、東京の風景の一部は今と違っていたかもしれないと、少し夢見る。
本書の始まりは悲劇、すぐにシンデレラストーリーとなり、中盤は夫の遺した負債の整理というシーシュポスの神話を地でいくような展開になる。
敬子さんに安らぎは訪れないのか? 心配になるが敬子さんは30歳になったあたりから、次第に身軽になっていく。1億円の相続税がまだ残っていたものの、会社を二つに減らしたのだ。
以下に敬子さんと、いまも人々の記憶の中で輝き続ける力道山の栄光を巡るメモリアルな出来事を年表風にしてみる。
1975年 力道山13回忌追善大試合
1989年 力道山が特別に可愛いがったアントニオ猪木が参議院選挙に立候補し、最後の議席を扇千景と争い、最後の当選者に滑り込む。南北統一を願って政治家になりたがっていた力道山の夢を叶えた
1996年 「第1回メモリアル力道山」開催
1999年 ジャイアント馬場、61歳で逝去
2000年 「第2回メモリアル力道山」開催。引退したアントニオ猪木とジャニーズの滝沢秀明が3分一本勝負のエキシビジョンマッチを行う。これ以降も猪木は何度となくリング復帰が噂されたが、二度とリングに立つことはなかった。
2022年 アントニオ猪木、79歳で逝去
2008年、高校野球の神奈川県代表を決める大会で、慶應義塾高校の左腕の活躍が報じられる。彼の名は田村圭、力道山と敬子さんの実孫だ。決勝で東海大相模との死闘を制し、前年の夏に続いて春の選抜への出場を決める。甲子園では準々決勝まで勝ち進み、延長で惜しくも敗れた。スタンドには県大会から孫を見守り続けた敬子さんの姿があった。
孫はフジテレビのアナウンサー職をけり、三菱商事に入社した。孫は当時の事情など知らないだろうが、三菱といえば、敬子さんにとって松濤の土地を買って自分を助けてくれた会社。不思議な縁に、ふっと口角が上がる。
その敬子さんの姿は今、ある場所で週2日、お見かけすることができる。誰でも行ける場所だ(ここではあえて伏せます)。
本書を通じてなにより心打たれたのは、敬子さんの天性の明るさと、人を恨みに思ったりしないさっぱりした気性だった。日航のエアガールの面接で、「きみ、(当時の)皇后様に似てるね」と言われた優美な顔立ちの奥には、当時の女性としては珍しいほどの自立心と横浜の陽光が似合う聡明さが宿っていた。
プロレスのことをちゃんと書くには実力不足だったことをプロレスファンにお詫びしつつ、本書を女性にもお薦めするしだいだ。