兄弟の確執

 寛仁3年(1019)12月、頼通は摂政を辞め、関白に移った。

 父・道長の全盛時代において、頼通は人と争うことなく、摂関・関白の地位を得ることができたといわれている。

 その後も、頼通は後朱雀天皇、後冷泉天皇と三代の天皇の摂政・関白を担うことになる。

 治安元年(1021)正月には従一位に叙せられ、7月には左大臣となった。

 万寿4年(1027)12月4日、父・道長が、62歳で、この世を去った。頼通は、36歳になっていた。

 長元9年(1036)4月には後一条天皇が崩御し、後一条の同母弟・敦良親王が28歳で践祚し、後朱雀天皇となった。

 この年、頼通には、娘・寛子(のちの後冷泉天皇の皇后)が誕生しているが、すぐに後朱雀天皇に入内させられる娘はいなかった。

 そこで頼通は、敦康親王(一条天皇の第一皇子 母は高畑充希が演じた定子)の娘・嫄子女王を養女に迎え、翌長元10年(1037年)に、後朱雀天皇の中宮に立てた。

 嫄子は祐子内親王と禖子内親王を産むが、皇子が誕生することのないまま、長暦3年(1039)、24歳で亡くなってしまう。

 子どもの少ない頼通にとって、これは痛手であった。

 そんななか、頼通の四歳年下の同母弟・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇に入内させた。

 生子が皇子を授かることはなかったが、頼通と教通の兄弟は、天皇の外戚の地位を巡り、確執を深めていく。

 

摂関政治の黄昏

 寛徳2年(1045)正月、後朱雀天皇は第一皇子の親仁親王(母は、頼通の同母妹・藤原嬉子/嬉子は万寿2年(1025)に親仁を出産して数日後に死去)が21歳で践祚し、後冷泉天皇となった。

 後冷泉天皇の弟・尊仁親王(のちの後三条天皇)が、皇太弟に立てられた。

 尊仁親王の父は後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女・禎子内親王だ。禎子内親王の母は、頼通の同母妹の姸子である。

 後冷泉天皇に、教通は永承2年(1047)に三女の歓子を、頼通も永承5年(1050)に15歳の長女・寛子を入内させた。

 だが、歓子も、寛子も、皇子を産むことはなかった。

『栄花物語』第三十八「松のしづえ」によれば、後冷泉天皇は万事を関白の頼通に任せきりであったという。

 治暦3年(1067)、体調不良で宇治に滞在することも多くなった頼通は、同年11月の2回の上表の後に、12月に関白を辞任した。

 それでも、後冷泉天皇はしばらくの間、宇治の頼通を頼っていたようである。

 だが、後冷泉天皇自身も病に冒され、頼通の病も悪化したため、翌治暦4年(1067)4月17日、教通が関白に任じられた(以上、編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』 所収 海上貴彦「後冷泉天皇――次代の先駆けとなった〝中世開幕前夜〟」)。

 二日後の4月19日、後冷泉天皇は44歳で崩御。母親が皇女で、頼通・教通兄弟を外戚としない尊仁親王が即位し、後三条天皇となった。

 頼通が51歳の時に生まれた師実は、後三条天皇の信任厚く、師実の養子の賢子が後三条の皇子・貞仁親王(のちの白河天皇)の皇太子妃となり、外戚としての地位を得た。

 賢子が産んだ善仁親王は、のちに堀河天皇として即位することになる。

 しかし、頼通は師実の関白就任を見ることのないまま、延久4年(1072)に出家、延久6年(1074)に、83歳で没した。

 後一条・後朱雀・後冷泉の三朝にわたり摂政・関白となり、父道長とともに藤原氏全盛時代を築いた頼通。

 官人として順風満帆なようで、外孫皇子も誕生せず、権力抗争に翻弄された人生だったのかもしれない。