降嫁は破談に

 寛弘8年(1011)6月、一条天皇の譲位を受け、皇太子の居貞親王(父は冷泉上皇、母は段田安則が演じた藤原兼家の娘・藤原超子)が践祚し、三条天皇となった。

 皇太子には、一条天皇と中宮彰子の皇子・敦成親王(道長の外孫)が立った。

 三条天皇の中宮は、頼通の同母妹・藤原姸子である。

 やがて、三条天皇と道長の間に確執が生まれ、道長は重い眼病を患った三条天皇に退位を迫るも、三条天皇は抵抗した。

 そんな状況のなか、長和4年(1015)10月、三条天皇は三条の皇女である13歳の禔子内親王(母は三条天皇の皇后・藤原娍子)を、頼通に降嫁させることを提案した。

『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」によれば、道長は降嫁を受諾したが、正妻の隆姫女王を愛する頼通は、涙を浮かべた。

 それを見た道長は、「男子は妻一人だけを守らねばならぬわけではあるまい。子にも恵まれていないのだから、子を作ることを第一に考えよ」と叱咤したという。

 だが、降嫁は、頼通が同年12月8日から頭痛や発熱に苦しみ、12日には「万死一生」の状態に陥った(『小右記』長和4年12月12日条)ため、破談になった。

 降嫁に乗り気でなかった道長が、頼通の病気を理由に破談に持ち込んだという可能性も指摘されている(山中裕『藤原道長』)。

 

26歳で摂政に

 長和5年(1016)正月、三条天皇が譲位し、敦成親王が9歳で皇位に即き、後一条天皇となった。

 天皇の外祖父となった道長は、摂政に拝された。これは、道長の最初にして最後の摂関の就任となる。

 だが、道長は摂政を一年で辞め、寛仁元年(1017)3月16日、26歳の頼通に、その地位を譲っている。

 生前に摂政の地位を嫡男に譲るのも、26歳の摂政も例のないことだという(美川圭『日本史リブレット021 後三条天皇 中世の基礎を築いた君主』)。

 これは、道長の「今後は自分の家系が、摂関を世襲していく」という意思表明だと考えられている(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 道長は摂政を譲った後も、没するまで実権を握り続けた。