大河ドラマ『光る君へ』第34回「目覚め」では、都へ押し寄せ、要求を突きつける赤星昇一郎が演じる興福寺別当・定澄ら興福寺の僧たちと、事態の収拾に奔走する藤原道長の姿が描かれた。そこで今回は、この事件を中心にご紹介したい。

文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー

藤原氏の氏寺・興福寺

奈良市登大路町にある法相宗の大本山。平成10年(1998)には、東大寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡とともに、「古都奈良の文化財」として世界遺産(文化遺産)に登録された

 興福寺(奈良市登大路町)は、天智天皇8年(669)、藤原氏の始祖・藤原鎌足の夫人・鏡女王が山背国山階陶原(京都市山科区)に造営した「山階寺」が前身だと伝えられる。

 天武天皇元年(672)に起きた古代史上最大の戦乱といわれる「壬申の乱」後に、都が飛鳥地方に戻ると、大和国高市郡厩坂(奈良県橿原市)の地に移され、地名を取って「厩坂寺」と称された。

 その後、和銅3年(710)の平城京遷都に伴い、鎌足の子・藤原不比等によって、平城京左京三条七坊に移され、名を興福寺と改めたという。

 興福寺は藤原氏の氏寺として保護を受け、藤原一族の興隆とともに栄えていく。

 奈良時代には「四大寺」の一つ、平安時代には「七大寺」の一つに数えられた。

 平安時代に藤原氏が絶大な権力を手にすると、興福寺もよりいっそう繁栄する。

 神仏習合(神道と仏教の調和)が盛んになると、10世紀~11世紀にかけて藤原氏の氏社である春日社(春日大社)と一体化し、膨大な荘園と多数の僧兵を擁し、大和国に権勢を誇った。

 ドラマに登場した定澄は長保3年(1001)に、この興福寺の別当(寺僧のトップ)に補されている。