興福寺との紛争

 ドラマでも描かれた興福寺の僧が都に押し寄せ、朝廷に要求を迫った事件は、藤原道長の日記『御堂関白記』や、渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』などに記されている。

 事件の起きた寛弘3年(1006)の春の除目で、大和守に、大和源氏の祖となる源頼親が任じられた。

 歴史物語『栄花物語』巻第五「浦々の別」によれば、頼親は「長徳の変」で道長方の武者として登用されており、道長の信頼を得た人物だと考えられている(以上、東洋大学文学部史学科研究室編『東洋大学文学部紀要 史学科篇(43):2017』所収 森公章「源頼親と大和源氏の生成」)。

 この頼親の配下の左馬允当麻為頼(さまのじょうたいまためより)と、興福寺との間に紛争が起こっていた。

 

興福寺別当・定澄、道長を脅す

『御堂関白記』によれば、寛弘3年6月14日、興福寺から、興福寺領である池辺園の預(あずかり/管理者)が当麻為頼に打擲されたという訴えがあった。

 そのため道長は、為頼を召した。

 すると、その間に、三千人ほどの興福寺の僧が為頼の私宅に押しかけ、数舎を焼亡させ、周辺の田畑を損亡させたという。

 同年6月20日、大和国は、「興福寺の僧・蓮聖(れんしょう)が、数千人の僧侶や俗人を集め、大和国を損亡させた」と訴えた。

 藤原氏の氏長者である道長にとって、藤原氏の氏寺である興福寺は繋がりが深いが、道長は、興福寺に非があると判断した(森公章「源頼親と大和源氏の生成」)。

『御堂関白記』によれば、7月3日、道長は蓮聖の公請(僧侶が朝廷から法会や講義に召されること)を停止する。

 これに対し、興福寺の大衆(僧兵)は7月7日に愁状を提出するも、却下された。

 一方的な措置を承け、約三千人の興福寺大衆が上京。7月12日、興福寺別当・定澄は、道長の土御門第を訪れた。

 定澄は、「明日、興福寺の僧綱や已講が、15、16日の間には、大衆も参上すること」を告げ、「僧たちは、もし、蓮聖の愁訴にしっかりした裁定がなされなかった時には、土御門第の門下や大和守・源頼親の邸宅の辺りを取り巻いて、理由を尋ね、悪行を致すでしょう」と脅しをかけた。

 これは一種の強訴に他ならないという(古代学協会『古代学 17(2)』所収 朧谷寿「大和守源頼親伝」)。