史上初の女院に
父・藤原兼家が正暦元年(990)7月に亡くなり、円融法皇が正暦2年(991)2月に崩御すると、詮子は天皇家の実質的な家長となったが、正暦2年9月に病を理由に出家した。
皇太后の地位を退いた詮子であるが、またもや前代未聞の身分を手に入れることになる。
兼家のあとを継いで関白となった詮子の兄・藤原道隆が、詮子を上皇に准じる「女院」としたのだ(倉本一宏『藤原氏―権力中枢の一族』)。
史上初の女院の誕生である(院号は「東三条院」)。
詮子はもともと「天皇の生母」という権威を手にしていたが、それに女院としての権威が加わった。
詮子は、摂政や関白にも比肩する政治力を有したという(繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。
母后朝事を専らにす
詮子は女院となってから、弟・藤原道長の土御門第を里邸としていたとされる。ドラマでも描かれているように、道長は詮子にとって、気を許せるお気に入りの弟だったのだろうか。
女院となった詮子は政治的な影響力を行使し、国政にも介入したとされる。
歴史物語である『大鏡』の第五「太政大臣道長」に載っている、詮子が一条天皇の寝所までおしかけ、道長への内覧宣下を涙ながらに訴え、道長政権の設立への道を開いたという説話は、有名である。
秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』の長徳3年(997)7月5日条には、「母后朝事を専らにす」――すなわち、「天皇の母親が朝廷を牛耳っている」(繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)との記述があり、詮子の影響力の強さがうかがえる。
だが、そんな詮子も病には勝てず、長保3年(1001)閨12月22日、40歳で、息を引き取った。