大河ドラマ『光る君へ』では、吉田羊が演じる藤原詮子が、益岡徹が演じる源雅信を脅すような形で強引に味方に引き入れるなど、したたかな手腕を発揮し始めている。今回は、のちに大いなる権威を手にし、弟・藤原道長の政権成立を後押しすることとなる藤原詮子の生涯を追ってみたい。

文=鷹橋 忍 

真如堂 真正極楽寺 写真:shikou/イメージマート

可憐で親しみやすかった?

 藤原詮子は、応和2年(962)に生まれた。

 康保3年(966)生まれの弟・藤原道長より、4歳年上である。

 父は段田安則が演じる藤原兼家、母は三石琴乃が演じた時姫だ。

 道長や、井浦新が演じる藤原道隆、玉置玲央が演じる藤原道兼、冷泉天皇の女御となり、居貞親王(のちの三条天皇)を産んだ超子と同母である。

 詮子はどのような女性だったのだろうか。

 歴史物語である『栄花物語』の巻二「花山たづぬる中納言」では、「御有様、愛嬌づき気近くうつくしうおはします」(魅力にあふれ、親しみやすく、可憐でいらっしゃる)と称されている。

 詮子は、天元元年(978)8月、数えで17歳のときに、坂東巳之助が演じる円融天皇の女御となった。

 詮子は「梅壺」を居所としたという。

 梅壺とは、平安京内裏5舎の一つである「凝花舎」のことである。凝花舎は、庭中に紅白の梅が植えてあったことから、梅壺とも呼ばれた。

 

女御とは?

 先述のように、詮子は円融天皇の女御となったが、そもそも女御とは何だろうか。

 横尾豊『平安時代の後宮生活』によれば、令制における天皇の妻妾には、皇后、妃、夫人(ぶにん)、嬪(ひん)の序列があり、定員は皇后1員、妃2員、夫人3員、嬪4員、合計10人と定められていた。

 嵯峨天皇(786~842 在位809~823)のころには嬪の名称がなくなり、妃、夫人も、宇多天皇(867~931 在位887~897)、醍醐天皇(885~930 在位897~930)のころまでであった。

 代わって「女御」、「更衣」という名称が生じた。

 初代関白となった藤原北家の藤原基経の娘・穏子が、延喜元年(901)に醍醐天皇の女御となり、延長元年(923)に皇后に冊立されるにおよび、女御の地位は上がり、皇后は女御の中から選ばれるようになった。

 女御には定員はなく、宣旨により補せられたという。

 更衣は女御の下で、大納言・中納言の貴族の娘がなるのが、通例であった。もともとは、天皇の着替えさせる女官を指したという。