信長の弟という宿命を背負って生まれた武将・茶人の織田有楽斎(おだうらくさい)。その人物像を探る展覧会「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」がサントリー美術館にて開幕した。
文=川岸 徹 撮影/JBpress autograph編集部
400年遠忌を機に有楽斎の真の姿を探る
1547(天文16)年、天下人・織田信長の13歳年下の弟として生まれた織田長益。兄と同じく武将として活躍したが、同時に茶人・織田有楽斎の名でも広く知られている。有楽斎は千利休に一目置かれるほどで、彼の茶風は武家茶道の流
そんな織田有楽斎が2021年に400年遠忌を迎えたことを記念し、企画されたのが「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」。展覧会の開催について、正伝院の流れを汲む京都「正伝永源院」の住職・真神啓仁氏はこう話す。
「四百年遠忌にあたり当寺院の文化財を再調査したところ、有楽斎の人物像がより鮮明に浮かび上がりました。これまで有楽斎は“逃げた男”として語られることが多かったが、その短絡的なイメージを払拭したい。展覧会を通じて、有楽斎の本当の姿を知っていただけたらと思っています」
住職の言葉にある通り、織田有楽斎に “逃げた男”というイメージを持っている人は多いのではないか。1582(天正10)年、明智光秀が起こした謀反“本能寺の変”により、織田信長は本能寺にて自刃。その知らせを受けた織田長益(有楽斎)は主君であった信長の息子・信忠とともに誠仁親王がいる二条御所に移り、明智軍と交戦した。信忠は誠仁親王を逃走させることに成功したものの、戦いには勝てずに自害。主君を失った織田長益(有楽斎)は城から脱出し、安土を経て岐阜へ向かったなどと伝えられている。
汚名を背負ってでも生き延びる
主君が自害したにも関わらず、戦地から逃れた織田長益(有楽斎)。京の人々に「逃げた男」と揶揄され、当時の風聞書などにも悪評が記された。だが、“逃げる”という行為は本当に恥ずべきものだったのか。
「脱出という行為は生きるための本能的な動き。一歩引いて客観的な視点で戦況を見直し、誇りをもってその場を立ち回ったのでしょう。あの時代は、生き抜くことのほうが苦難の道。その行動は恥ずべきことではなく、勇気ある生き方だったと思います」(正伝永源院住職・真神啓仁氏)
本能寺の変の後、織田長益(有楽斎)は乱世の時代に重要な役割を果たした。小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉と徳川家康を和睦させる折衝役を担当。ほかにも織田長益(有楽斎)は調整役としての能力を発揮し、数々の和議調停を成し遂げたという。