東京・有楽町の地名は有楽斎が由来?
関ヶ原の戦いの後、70歳を過ぎた織田有楽斎は荒廃していた京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興。敷地内に茶室「如庵」を建て、茶の湯三昧の生活を送る。如庵は現在、愛知県犬山市に移築され、国宝茶席三名席のひとつとして現存。有楽斎が集めた茶道具は孫の織田三五郎に受け継がれたが、三五郎の遺言によって形見分けされ、現在は行方知れずのものも多いという。
展覧会ではかつて有楽斎が所持した、あるいは好んだと伝わる茶道具の名品を紹介。重要美術品『大井戸茶碗 有楽井戸』、『唐物文琳茶入 銘 玉垣』などに、数寄者としての有楽斎の姿を見ることができる。
江戸時代には家康に仕え、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領した織田有楽斎。東京・千代田区の公式ホームページによると、「その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代にその一帯は有楽町と名付けられた」そうだ。この件については異論もあるが、有楽斎の名から有楽町という地名が生まれたとする説にロマンを感じる。
「逃げた男」と呼ばれながらも本能寺の変を生き延びたからこそ、歴史にその名を残し、東京の町名となり、織田家の家名を現代へと受け継がせることができた。織田有楽斎の人生に、しぶとさ、逞しさ、そして知性を感じる。