14歳で五輪に出場
小学1年生でバッジテストの初級をとって大会に出場。小学4年生でバッジテスト(フィギュアスケートの技能検定)の、全日本選手権に出られる7級も取得。その後小学5年生のときにはスケートに打ち込みやすいよう、私立校からリンク近くに位置する公立校に転校し、練習に励んだ。
おおづかみに捉えれば、順調に階段を上がっていった八木沼は、中学3年生になり、1987-1988シーズンを迎えた。1987年12月、前シーズンに続き世界ジュニア選手権に出場し2位となった。
「その成績で、連盟推薦ということで全日本選手権に出ることになりました」
1988年1月、全日本選手権を迎えた。初のシニアの大会だったが準備の時間は短かったから「大会まではもう大変でした」。ところが(当時実施されていた)コンパルソリーでトップに立つ。すると周囲に変化が起こった。同年のカルガリー五輪代表選考がかかる大会だったからだ。
「新聞社の方にいろいろ聞かれたり、カメラマンの方が写真を撮ってくださったり」
内面に影響を及ぼさないわけはなかった。
「これはオリンピックが見えてきているのかなと雑念が入ってくる感じでした」
それでも伊藤みどりに次ぐ2位と好成績を残し、五輪代表にも選出された。当時14歳、第二次世界大戦以降の冬季五輪では日本最年少であった。
その大舞台はどのようであったか。
「今みたいにSNSだったり、動画配信で何か観られたりという時代でもなかったですし、先輩たちにと話を聞くくらいで全く想像ができない世界だったんですね。ジュニアの試合では1500人から2000人入る会場だったので、観客が何万人もいる会場を体感するとこういう感じになるんだとかオリンピックの大きさに驚きました」
その中に思い出もある。
「公式練習では東ドイツ(当時)の選手と一緒でカタリーナ・ビットもいました。私は大ファンだったので同じリンクでビットが滑っているのに圧倒されて自分の練習よりその練習を見てしまって、福原先生に『何やってんの! 早く練習』って言われるぐらい心を奪われてしまってました(笑)」
八木沼は大会を14位で終えた。
「そうした空気の中で自分の演技に集中しなきゃいけない、自分の心と体のコントロールがまだまだできていなかったですし、シニアではそれが大切なんだというのは終わってから感じました」
もう一度オリンピックへ
選考会である全日本選手権、代表選出後、オリンピックと注目を集め続けた。オリンピックが終わってもかわらない。それがときとして苦しめた。
「自分がいちばん実力をよく分かっているので、これでは駄目だからどのように成長していくかを先生ともよく話し合っていました。でも日本に帰ってもオリンピックに出たという肩書きがついて回る。荷が重いというか、ずっとオリンピックの鎖につながれていたような感じでした。もっと頑張らなきゃいけない、でも何に対して頑張らなきゃいけないのかよく分からなくなってしまったこともあったし、これでいいのかな、このまま続けていいのかなと考えたりすることもありました」
その中でも、「もう一度オリンピックへ」という思いはあった。
「自分が行きたかったというのはもちろんですが、カルガリーの代表になったとき、福原先生が泣いていたんですね。もう1回福原先生をあの舞台に連れていきたいと思っていました」
だが1992年アルベールビル、早稲田大学3年生のシーズンにあった1994年リレハンメル五輪はあと一歩のところで代表に手が届かなかった。
「オリンピックがかかってないときはうまくいけても、いざオリンピックとなるとどうしてもつまずいてしまう。オリンピックの難しさというか自分の中で考えすぎずに自分に集中して演技をしていればよかったんだと思うんですけど。何か、ずっと戦っている感じでしたね」
その翌シーズンである1994-1995シーズン、大学卒業を機に、新たなスタートを切ろうと考えた。(続く)
八木沼純子(やぎぬまじゅんこ)5歳のときスケートを始める。1988年カルガリー五輪に第二次世界大戦後では史上最年少の14歳で出場し14位。全日本選手権は8度出場し表彰台に7度上がり、世界選手権は7度出場している。1995年、早稲田大学卒業とともに引退し「プリンスアイスワールド」でプロスケーターとして活動を始める。2013年に卒業。現在は明治神宮外苑アイススケート場でインストラクターを務める。また競技引退後からテレビでスポーツキャスターや解説者などを今日まで続けるなど、さまざまな場で活躍している。