青春時代に憧れつつも、どうしても手が届かなかったアノ名品だって、いまなら手が届く…いや、むしろいまだからこそ手を伸ばす価値がある! 自分と等しく年月を重ね、“次代のヴィンテージ”と目されるに至った、ファッション界の人類遺産たちに、いま改めてスポットを当てる。

写真=丸益功紀[BOIL] スタイリング=コダン 文=黒澤正人 編集=名知正登

世界に「衝撃」を与えた日本ファッション界の御三家

 ファッション界において独自のポジションを確立し、トレンドと距離を置くことに成功しているブランドは、ほんのひと握り。数年前まではあらゆるメディアがこぞって取り上げていたのに、今ではリユースショップで二束三文で販売されている……なんてブランドも決して珍しくはない。

 そんななか、およそ40年以上の長きに亘って、日本国内どころか、世界中の服好きから、その一挙一動が注視され続けているドメスティックブランドが存在する。「コム デ ギャルソン」、「ヨウジヤマモト」、「イッセイミヤケ」だ。この3者はしばしば「日本ファッション界の御三家」として讃えられ、各国の服飾業界人からも別格の存在としてリスペクトされている。

 さらに近年では、各々個性の異なる派生ブランドを多数展開し、独自の世界観を伝播し続ける現役ブランドにもかかわらず、過去のアーカイブがヴィンテージ化。これまた世界中にコアな蒐集家を生み出し続けている。年齢を重ねてモードにも寛容になった大人の服好きとしても、改めてアンテナを張っておきたい存在のはず。そこで今回は、今さら人には聞きにくいこの御三家の足跡(もはやファッション界の一般教養?)をおさらいしたい。

 まず「コム デ ギャルソン」のデザイナーは、言わずと知れた川久保怜氏。同氏は1964年に慶應義塾大学を卒業後、国内の某大手テキスタイルメーカーに入社し、繊維宣伝部でスタイリストの経験を積んだ後、1967年からフリーランスのスタイリストになった。以降自らデザイン、パターン、縫製を手掛け、服作りを始めたことを契機に、1969年「コム デ ギャルソン」をスタートさせる。

 1973年に株式会社「コム デ ギャルソン」を設立すると、1975年に東京コレクションに初参加。当時のファッション界では敬遠されがちだった「黒」で構成したアイテムは、まず日本でブレイク。80年代におかっぱ頭で黒服に身を包んだ「カラス族」を誕生させることとなった。1981年には山本耀司(下記参照)とともにパリコレに参加。依然モード界ではタブー視されていた黒を多用したアイテムで、世界のファッション界に絶大なインパクトを与え、賛否両論を巻き起こした。

 後に「黒の衝撃」として服飾史に語り継がれることになったこのコレクション以降は、周知の通り。山本耀司、三宅一生(下記参照)らとともに、80年代以降の日本における「DCブランドブーム」を牽引。以降派生ブランドも多く誕生しているが、どれもギャルソン然とした強烈な個性で、トレンドとは一線を画し、孤高のブランドとして根強い信者を獲得している。

 次に「ヨウジヤマモト」。デザイナーはこれまた言わずと知れた、山本耀司氏だ。同氏は新宿の歌舞伎町で洋装店を営む母親の元に育ち、偶然にも川久保氏と同じ慶應義塾大学を卒業後、文化服装学院へ入学。1969年に「装苑賞」と「遠藤賞」を受賞して卒業すると、パリへの往復航空券と10万円を獲得したことで、パリへ遊学。現地で名だたるメゾンがプレタポルテ(既製服)のブランドを立ち上げたことに触発され、帰国後、1972年に株式会社「Y’s(ワイズ)」を設立した。

 1981年には「アンチテーゼによってモードを制覇する」という哲学のもと、自身の名を冠した「ヨウジヤマモト」をスタートし、川久保氏とともにパリコレに参加。「コム デ ギャルソン」とともに禁忌とされていた黒を全面に押し出しつつ、ボロ切れのようなアイテムで構成したことで、世界のファッション界に「黒の衝撃」を与えることとなった。

 以降は「コム デ ギャルソン」と同様に、派生ブランドを多数輩出。自身は各国の芸術賞を多数受賞し、映画やオペラなどの衣装も担当するなど、活躍の場を広げている。

 トリは「イッセイミヤケ」。デザイナーの三宅一生氏が、はじめて服飾業界人の耳目を集めたのは1960年のこと。「世界デザイン会議」が日本で初開催されていたなか、当時多摩美術大学に在学していた同氏は、“なぜ議題に衣服の分野が含まれないのか”と、事務局に質問状を送付。衣服を“ファッション”ではなく“デザイン”として捉える視点で注目を集めた。

 その後、自ら服のデザインを開始し、大学卒業後の1963年には第一回コレクション「布と石の詩」を発表。65年にはパリへ渡り、2つのメゾンでアシスタントを務めていた最中、1968年にパリで起こった五月革命に遭遇。限られた人だけでなく、より多くの人々のための服作りを決意し、翌1969年にはニューヨークに渡って既製服の経験を積むことに。

 帰国後、1970年に「三宅デザイン事務所」を設立し、1971年には「イッセイミヤケ」ブランドでニューヨーク コレクションに参加。以降、同氏の服作りの基軸となる「一枚の布」という思想で、独自の立ち位置を築き上げていくこととなった。

 2007年にデザイナーを退任するまでの間に、同氏は前述の二人と同じく、多くの派生ブランドを誕生させたが、いずれのブランドにも、この思想のもと、すべてのブランドに独自のテキスタイルを追求する姿勢が息づいている。氏は惜しむらくも2022年に他界してしまったが、現在はその意思を継ぐデザイナーたちが、各々のブランドを牽引。服に限らず、時計や鞄を含め、これぞイッセイなアイテムを世に送り続けている。

 以上、御三家の足跡を超ダイジェストでおさらいしたが、ここで触れることができたのは、当然その偉業のごくごく一部。ただアウトラインをおさえるだけでも、三者には共通点が存在することがわかる。それはタブーやトレンドなど度外視して、強烈な個性と信念のもとにデザインしている、ということ。

 黎明期の70年代〜80年代は、ネットなんて当然普及しておらず、情報の拡散速度も今よりずっとずっと遅かったうえに、現在より“多様性”という概念が広く浸透しておらず、ファッション界も閉鎖的だったはず。にもかかわらず、三者は挑戦的ともいえるデザインを臆せず世に発表したことで、ファッション界に革命を起こした。クリエーションの素晴らしさはもとより、その進取の精神にも敬意の念が集まったことで、三者は「御三家」としての地位を築き上げたのかもしれない。