文=松原孝臣 撮影=積紫乃

2007年4月、「Prince Ice World 2007」で演技を披露する八木沼純子 写真=アフロスポーツ

引退後、アイスショーの世界へ

 八木沼純子は、早稲田大学4年生であった1994-1995シーズン、全日本選手権で2位となり、世界選手権にも7度目の出場を果たしたが、卒業とともに競技から退いた。

「ちょうど4年のときに心も体もようやく整ってきて、もう1年やったらもう少しいけるかなとも思いました。でもフルタイムアスリートというものが日本でまだ浸透していなかったと言いますか、両親にサポートしてもらっていたので、これ以上は難しいかな、という思いがありました」

 今日ではトップスケーターの場合、さまざまな形態で支援する企業も少なからずあり、そのバックアップを受けて社会人となってからも競技を続けるケースは多い。でも当時はそうした競技環境が整っていたわけではなかった。

 競技から退くとはいえ、スケートを続けたい思いは変わらなかった。選んだのは、アイスショーの世界だった。

「もともと小さいときからアイスショーを見るのが好きで、大きくなったらこの道に進みたいなと思っていました。そこで、自分の中で競技に区切りをつけました」

 八木沼は「プリンスアイスワールド」でプロフィギュアスケーターとしてスタートを切った。1978年に始まった「VIVA! ICE world」から1988年に改称された日本初のアイスショーである。

「もともと福原先生が滑っていらっしゃったこともありましたし、毎年1回は必ず見に行っていたので、小さい頃から非常に馴染み深くてここで滑ってみたいなという気持ちがとても大きかったので、門を叩いたという形です」

 ただ、今日のようにアイスショーが数多く行われていた時代ではないし、したがってアイスショーというものが広く知られていたわけではない。

「競技会はファンの方々、関係者の皆様が支えてくださり、テレビで放送してくださり、成り立っていたと思います。アイスショーは以前から先輩方が長年受けていらっしゃるイベントにもかかわらず、どこでも認知されているというわけではありませんでした。当時はディズニーオンアイスや、あともう1つぐらい海外から来ていたかなという具合です。

 私はよく『草の根運動隊』と言ってたんですけど、いろいろな方に見てもらうには何がいいのかと試行錯誤している時代だったと思います。私が入った頃はキャラクターと一緒に滑ったり、スケートを通じて、子どもたちやファミリー層に受けるようなことに取り組んでいたかもしれないですね。スケーターだけじゃなく、例えば海外から団体のアクロバティックなものをやるチームを呼んでみたり。今となっては『そんなことをやっていたの?』という感じだったと思います」

 毎年、各地で公演する中で、八木沼には忘れられない思い出がある。