1人であってもその人のために滑る

「お客様が3人しかいかなかった。いや、もうちょっと多かったかな、5人くらい、どちらでもあまり変わらないですけど、それくらいしかいない中で滑ったことがあります」

 その日、天候が悪かったという事情があったという。とはいえ、それは当時のアイスショーを思い起こさせる、時代を象徴しているようでもある。

 ごくごく限られた観客の前で滑ったそのショーでは、やはり忘れられないことがある。

「先輩が言った言葉がすごく印象に残っています。『俺たちはプロだから、1人であってもその人のために滑る。集中して滑る。それができなきゃプロじゃないからね』」

 そこには、アイスショーを花開かせてみせるという気概が込められているかのようだった。

 その後、プリンスアイスワールドのチームリーダーとなった八木沼も、ショーを向上させる試みに心を砕いた。

「オープニングのソロを任されていたので、そこで自分らしさを出して、お客様がわくわくするにはどんなナンバーがいいかなとく考えていました。また、床のプロのダンサーの方と組んでプログラムを作ることもやりましたし、いろいろ情報交換をして、アイスショーを構成する演出の方とも話し合いをして作っていました。リーダーとしてどうやって盛り上げればいいかな、どうやったら盛り上がるかな、と考えていました」

 グッズの販売をするコーナーも設けた。

「私自身、話をする仕事が始まっていたので、そこで私が喋りながらお客さんと一緒に盛り上げていって、それで第二幕が始まるという流れでした」

 スケーターとして滑る一方で、フジテレビの報道番組でスポーツキャスターを務めるなど他の分野にも活動を広げていた経験がいかされたという。

 それもショーをいかに楽しい時間にするかという思いが原点にあった。

 加入して18年、チームリーダーとして10年引っ張ったのち、2013年、卒業する。

「全力でプログラムを滑るには、足の状態が厳しくなってきていたので、もう引退した方がいいかな、一度足を治そうと思いました。その後にディレクターという仕事の依頼が来て、ディレクターもやらせていただきながら外からアイスショーを見ることで、グループナンバーの連携、バランス、曲の使い方、衣装の色形、髪飾りや細部に至るまで、スポットライトの中でスケーターがより輝くためにはどう構成していけばよいか、とても勉強になりました。

 その後も各メディアなどでも活動しつつ、八木沼は再び、新たな一歩を踏み出した。(続く)

 

八木沼純子(やぎぬまじゅんこ)5歳のときスケートを始める。1988年カルガリー五輪に第二次世界大戦後では史上最年少の14歳で出場し14位。全日本選手権は8度出場し表彰台に7度上がり、世界選手権は7度出場している。1995年、早稲田大学卒業とともに引退し「プリンスアイスワールド」でプロスケーターとして活動を始める。2013年に卒業。現在は明治神宮外苑アイススケート場でインストラクターを務める。また競技引退後からテレビでスポーツキャスターや解説者などを今日まで続けるなど、さまざまな場で活躍している。