「村野の1%」

 さて、ここで「1%」の話。

『日経アーキテクチュア』の元編集長で画文家、編集者である宮沢洋氏によると、村野藤吾は『日経アーキテクチュア』のインタビューで、自身の創作とクライアントの関係について、次のような興味深い発言をしているそうだ。

「いよいよ最後になって1%が残るわけだ。これが村野藤吾なんです。村野藤吾に頼んだ以上は、そこまで取るわけにはいかないでしょう」

「村野藤吾がやらない以上はできないというところが出て、その1%が時として全体を支配する影響力を持つこともあるんです。その意味の村野藤吾の作品であるわけです」

 与条件を離れて建築家に与えられる余地はいつも1%しかない、村野藤吾はその1%を「聖域」と語ったという。これがまさしく『村野の1%』という逸話である。

 さて、みなさんはこの話を「こんな私でも、自由に自分を表現できるのは1%程度なんですよ」という村野の謙虚さと取るか、それとも「私だったら、自由に自分を表現するには1%で十分だ」という自信と取るか、どちらと考えるだろうか?

 いやいや、それよりも、「えっ?たった1%?《日生劇場》なんて『ほとんど村野』なんじゃないの?」と疑問を持つ方もいるのではないだろうか? 何を隠そう、私もその一人だ。こんなに村野ワールドを堪能できる《日生劇場》でも本当に1%なのか否か……ここで改めて、《日生劇場》の意匠を、村野藤吾の設計コンセプトからもう一度、読み解いてみたいと思う。

 まずは外壁の石張りについて。

 これは村野藤吾が、《日生劇場》が今後、百年の使用に耐えつつ、品位と風格を備えた記念的な建物とするため、どのような材料が適当であるかを入念に検討した結果、万成石を採用したと述べている。

 また、外観の表現については、石を使用しているゆえ、少し様式的になってしまうところがあることを認めた上で、ディテールはもちろん、壁面のビシャン仕上げや、全体のヴォリューム感などは、「ただ人間の感触を対象に考えているだけ」と言っている。

 先にも説明したが、当時はコンクリート打放しといった実用性重視の建築が隆盛を極めており、この石張りの豪華な建築に対し、世間のみならず若い建築家などからも批判の声が上がったようだが、彼には「百年の寿命」と「記念的建築」のためという確固たる主張があったので、それらにはいささかも動じることがなかったようだ。

《日生劇場》外壁 撮影/三村大介

 また、客席の表現についても、村野自身は音の拡散を生むために、客席の天井も壁も曲面の多いものが望ましいと判断し、それをそのまま建築的な表現にしたと言う。彼は自身で精力的に土を捏ねて形を調整し、音響についても、1/50や1/10といった巨大な模型を使って、幾度も実験が繰り返されチェックされたようだ。

 こうしてみると、村野藤吾が言う「1%」は、決して、偽善的かつ自己満足的な観念や想像から生まれ出てくるものではなく、あくまでもクライアントの要望やあらゆる与条件の先に生まれ出るものであると言えるかもしれない。

 現に彼は、「1%以外の99%はクライアントと話し合いすべき内容、自分に任せたから自由にできるなんて大それたことだ」とも言っているのだ。すなわち『村野作品は1%の自分と99%の自分以外で成立している』ということだ。それでも「ホントに1%?」と思うかもしれないが、おそらく彼の中では我々から見て『ほとんど村野』であるものは、彼から溢れ出てくる想像力にとっては1%程度だったということなのではないだろうか。

《日生劇場》客席

 さて、最後に、村野藤吾の《日生劇場》における逸話を1つ紹介したい。

 どのような趣旨で開催されたか定かではないが、ここ《日生劇場》でパーティーが開かれた時の話である。ある新進気鋭のモダニストの建築家が会場に居た村野藤吾を捕まえて、ロビーの大階段の前で、「村野先生、この階段の手すり、長さが足りないのではないですか?これでは、機能上、安全上問題ありです。設計ミスではないですか?」と詰め寄ったそうだ。

 確かにそう言われると、手すりが1段分足りず、これに手を添え上り下りするには、少々心許ない気もするが・・・村野藤吾危機一髪!と言ったところだが、この詰問に彼はこう応えた。

「いやいや、君。これはこの大階段を下りてくる淑女の手を、恥ずかしがり屋の多い日本人紳士が、てらいなく優しく手を差し伸べエスコートできるようにデザインしたのですよ」

 いやはやなんとスマートでウィットのある回答だろうか!これには、さすがの若手建築家もぐうの音もでなかったとか。村野先生、カッコよすぎ。

《日生劇場》大階段

 ここまで見てきたように数々の名言、逸話を残した天才・村野藤吾だが、今の私にもっとも響くこんな言葉も残してくれている。

「建築家は50歳から」

「建築家が独立するのは50歳ぐらいになってからでいい」

 人生100年時代。私もまだまだこれからだと信じて精進します、村野先生。