文=三村 大介 画像提供=東京文化会館(表記以外)

《東京文化会館》外観 

『出藍の誉れ』

 先日、将棋の藤井聡太が名人戦七番勝負で渡辺明名人を破り、ついに七冠となった。藤井七冠については、今更説明するまでもないとは思うが、2016年に史上最年少の14歳2ヶ月で四段に昇段し、プロ入りを果たすと、そのまま無敗で公式戦最多連勝記録である29連勝を樹立。その後も19歳6カ月で5冠を達成するなど、数多くの最年少記録を塗り替え、他の追随を許さない高い勝率で快進撃を続けている若き天才棋士である。

 そんな無双状態にある藤井七冠であるが、彼を語る上で外せないと私が思っているのが、彼の師匠である杉本昌隆八段だ。今、日本で一番有名であろうこの師弟について、私の大好きなエピソードがある。

 それは、藤井七冠がまだ小学校4年生だった夏のこと。彼が弟子入りすべく、お母さんと一緒に、喫茶店で初めて杉本氏と対面した時の話である。未来の師匠である杉本氏を前に、藤井少年は緊張した様子で目も合わせられず、ただモジモジするばかり。それを見兼ねたお母さんが「ホラ、自分で直接言いなさい」と藤井少年に助け舟を出し、やっとの思いで、「奨励会試験を受けたいので…弟子にしてください」と小さな声でお願いしたそうである。いはやは、なんとも初々しく微笑ましい光景である。

 さて、こうして晴れて師弟関係になることが決まってホッと一息。3人のテーブルに飲み物が、杉本氏とお母さんにはアイスコーヒーが、藤井少年にはクリームソーダが運ばれてきた。そこでなんと藤井少年は、緊張が解けたからであろうか、テーブルに置かれたクリームソーダのアイスをいきなりブクブク沈めようとし始めたのだ。それを見て慌てたのがお母さん。すぐに注意しようとしたのだが、杉本氏がそれを制した。

「お母さん、もう私が師匠ですので」と言うと、「いいか藤井、いきなりアイスを沈めるとあふれちゃうだろう。アイスを食べるか、ソーダを飲むかしないとダメだ」と藤井少年を戒めたのだ。杉本氏曰く、「これが新しくできた弟子に対する最初の指導」であった。

 実はこのエピソード、2020年、当時藤井聡太七段が17歳11カ月という史上最年少でタイトルホルダーになった時に、杉本八段が新藤井棋聖に送ったメッセージの中で語られている話なのだが、彼はこの思い出話に続けてこう語っている。

「思えば、私が彼に教えられた数少ないことのひとつです」

 と。

 今や将棋界の大スターになった弟子に対するこれ以上ない賛辞であり、師匠・杉本氏の人柄がよく表れた、とても心温まるエピソードである。

2020年7月16日、第91期棋聖戦5番勝負の第4局に勝ち、史上最年少でタイトルを獲得し、記念撮影に応じる藤井聡太棋聖(当時)と師匠の杉本昌隆八段 写真=時事

 こんな師弟関係を例えるならばそれはまさしく『出藍の誉』。弟子がその技術や能力において、師匠よりも優れた才能を表した際に用いられるこの言葉だが、今回私は、建築界にも数多く存在する『出藍の誉』から、前川國男を取り上げたいと思う。

 

巨匠とその弟子

 前川國男は戦後の日本建築界を牽引した建築家であり、その師匠は改めて語るまでもない巨匠ル・コルビュジエ。

 あれ? 師匠を超えた弟子が『出藍の誉れ』なんでしょ?いくら前川國男でも、世界的建築家、ル・コルビュジエは超えていないんじゃないの?と疑問に思う方も多いかもしれない。確かにその通り。近代主義建築を提唱したル・コルビュジエの世界的影響力や貢献度、数々の傑作を残している(なんと言ってもユネスコの文化遺産に登録されているのだから)大先生の知名度と比較すると、前川國男がそれらを超えているとはとても言い難い。

 しかしである。私はここ日本、こと上野において、彼は十分『出藍の誉れ』と呼ぶに相応しい仕事をしていると思っている。それが今回紹介する《東京文化会館》であり、弟子・前川國男の最高傑作と言っても過言では無い作品である。

 日本経済が復興の軌道に乗ってきた1953年(昭和28年)、「首都東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応えるべく計画がスタートする。その後、東京都開都500年記念事業の一環として《東京文化会館》の基本計画がまとめられ、1957年(昭和32年)7月、その設計者に前川國男が正式に依頼される。それは折しも、1959年(昭和34年)の竣工目指して、前川國男はじめ坂倉準三、吉阪隆正という弟子たちによって、師匠であるル・コルビュジエの《国立西洋美術館》の実施設計が進行中という、激務の真っ最中というタイミングであった。

 ちなみに、この設計にあたって、ル・コルビュジエのパリのアトリエから、送られてきた実施設計図はたった9枚。しかも、しっかり寸法が記載されていたのは1枚だけ。もちろん構造や設備の図面も含まれておらず、到底、それらだけでは施工できるレベルのものではなかったので、彼らがいかに苦労したかは想像に難くない。

 その上、その図面の片隅に「日本の弟子たちを信頼し、彼らが寸法を書き入れることができると信じている」と書かれていたというのだから、さぞや複雑な胸中で仕事に臨んでいたのに違いない。

 このような厳しい状況にあっても、前川國男はこの指名を快諾する。それは、彼が設計した《神奈川県立音楽堂》(1954年[昭和29年])が音楽堂としての高い評価を得て、日本建築学会賞も受賞したという設計者としての自信があったということもあろう。しかし、なんといっても、《東京文化会館》の敷地は、彼にとっては曰く付きである《東京国立博物館》(『東京建築物語』第11回参照のこと)に隣接する上野公園であり、しかも師匠の作品の真向かいなのだから、彼がこのオファーを断る理由など無かった。

《神奈川県立音楽堂》Wiii, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 前川國男はこの《東京文化会館》の設計において、1959年(昭和34年)1月に着工するまでの約15ヶ月間、所員を総動員して設計を進めたそうだ。費やされた延べ時間数は、建築だけでなんと6万時間越え。今なら訴えられそうなレベルであるが、こんな超過密スケジュールをどうにかこなし、《国立西洋美術館》の開館から2年後の1961年(昭和36年)、《東京文化会館》は無事開館、上野公園の入り口で師弟の競演(もしくは対決)が実現することとなった。

 ちなみに、前川國男にとってのもう1人の師匠であるアントニン・レーモンド(コルビュジエ事務所を退所後帰国した1930年(昭和5年)から独立するまでの約5年間、客分として在籍し、件の《東京帝室博物館》のコンペに参加したのはちょうどこの期間中)は、この《東京文化会館》を「前川國男の交響曲」と評し、絶賛したらしい。

 そんな傑作となった《東京文化会館》。当然のことながら、この作品には、前川國男のこの建築へのこだわりが随所に見られるのだが、今回私は、そのいくつもある見どころについて、「開かれた空間」と「師匠コルビュジエ」という2つのポイントに絞って読み解いてみたいと思う。