文=三村 大介 画像提供=公益財団法人ニッセイ文化振興財団

《日生劇場》

エジソンの名言の本意

『天才とは、1%のひらめきと99%の努力である』

 これは誰もが知る発明家、トーマス・エジソンのあまりにも有名な言葉である。

トーマス・エジソン

 さて、この名言、みなさんはどのように解釈しているであろうか?

「発明の天才、エジソンだって、ひらめきはたった1%、その成功は圧倒的に努力によるものだ。努力が何より大切なのだ!」

 といったように理解している人が多いのではないだろうか。

 ところがである。実はエジソン本人は、次のような発言もしているのだ。

「私は、1%のひらめきがなければ、99%の努力は無駄になると言ったのだ。にも関わらず、世間は勝手に美談に仕立て上げ、私を努力の人と美化している。そして、努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている」と・・・

 さらには、「ただ努力だけという人は、エネルギーを無駄にしているに過ぎない!」とまで言ったとか。

 さてさて、こうなると、先のエジソンの名言は、「どれだけ努力しても意味がない」「頑張っても報われない」と、我々が理解していた「努力は重要」という意味とは全く正反対になってしまう。果たしてエジソンの本意はいずこに・・・。

 実は「努力は無駄」と切り捨てたエジソンではあるが、実際、彼は非常に勤勉家だったようで、睡眠時間は4時間程度、1日16時間以上、発明に没頭していたようだ。

 また、「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を発見しただけだ。」と、まるでドリカムの唄のように、失敗してもめげずに前を向くことが大切だというようなこともよく言っていたようである。

 これらのことから察するに、エジソンのかの名言の本意は、「努力だけでもダメ、ひらめきだけでもダメ、それらが両方あってこそ、天才と呼ばれるに相応しい」というのが、正しい解釈なのではなかろうか。つまりは、「天才の成分は、1%のひらめきと99%の努力」という感じ。おそらくエジソンは上っ面だけの自己啓発本のような「努力は報われる」とか「がんばれば夢は叶う」といった能天気で手放しの努力至上主義に釘を刺したかったのではなかろうかと私は考える。

 この「努力」というものについて、野球選手の大スター、イチローも興味深い発言をしている。

 ある時、「努力は報われますか?」と問われたイチローはこう応えたという。

 「報われるとは限らないですね。もっと言えば努力と感じている状態はまずいでしょうね。その先に行けばきっと人には努力に見える、でも本人とってはそうでないという状態が作れる。そうすれば勝手に報われることがあるんです」

 実はエジソンも「私は一日たりとも、いわゆる労働などしたことがない。何をやっても楽しくてたまらないからだ」とイチローと同じような主旨の発言をしている。

 こう考えてみると、『天才とは、1%のひらめきと99%の努力である』という金言は、努力を努力と思わず、楽しく無我夢中でやり続けた先にひらめきが舞い降りる、それをできるのが天才である、そう解釈するのがエジソンの真意に近いのではなかろうか。

 さて、今回紹介する建築家はある意味、エジソンやイチローにも通じる天才・村野藤吾。実は彼もエジソンのように、「1%と99%」に関してとても興味深い言葉を残している。果たしてどのような内容なのか。それを彼の代表作である傑作《日本生命日比谷ビル》の解説を通して紹介したいと思う。

村野藤吾

《日本生命日比谷ビル》は、1963年[昭和38年]に竣工した鉄骨鉄筋コンクリート造、地上8階建、地下5階、延べ面積約43,000㎡のオフィスと劇場から成る複合ビルである。一般には、この劇場の名前である《日生劇場》として呼ばれることが多いので、私も以降、《日生劇場》として解説させていただく。

 さて、この《日生劇場》は、日本生命が創業70周年事業として、「人々の心に少しでも潤いと憩いを与え、ひいては将来の文化の発展に 寄与することができれば」という当時の社長の思いから計画がスタートしている。その設計に抜擢されたのが当時70歳を超えていた村野藤吾。

 えっ70歳オーバー!? と驚くことなかれ。彼の代表作である《世界平和記念聖堂》(1954年[昭和27年]・63歳)や《千代田生命保険本社ビル(現目黒区総合庁舎)》(1966年[昭和41年]・75歳、《箱根プリンスホテル》(現ザ・プリンス箱根芦ノ湖)》(1978年[昭和53年]・87歳)などなど、その多くが60歳を超えてからなのだ。

目黒区総合庁舎 写真=フォトライブラリー

 しかも、93歳で亡くなる直前まで現役で活躍していたことを考えると(事務所での打ち合わせ後、自宅の床で永眠したのだが、彼の上着のポケットには、翌日に出張で東京に向かう飛行機の切符が入っていたそうだ)、《日生劇場》の依頼を受けた時は彼がノリに乗っている時期だったということになる。

ザ・プリンス箱根芦ノ湖