その他の代表作を読み解く

《教会の聖母子》1438-39年頃 油彩・板 31×14cm ベルリン、国立絵画館

《教会の聖母子》(1438-39年頃)は、マリアが巨大に描かれていることに驚きますが、先の回で述べたように当時の北方絵画ではよくあることで、この点はルネサンスの数学的な絵画とは大きく異なります。これは現実を再現しようという写実というより祈りの対象という意図が強いためだと思われます。それにしても素晴らしいのは教会のステンドグラスから入ってくる光が床や壁に当たって描出される絶妙な光の表現です。形のない光と、教会の中の雰囲気がリアルに伝わる卓越した写実的な表現です。

画家G『トリノ=ミラノ時禱書』「死者のミサ」1420-25年頃 彩色写本 羊皮紙 28×20cm トリノ、トリノ市立美術館

 教会内部の緻密な表現は『トリノ=ミラノ時禱書』の「死者のミサ」の表現とよく似ています。

《受胎告知》1434-36年頃 油彩・カンヴァス(板から移行) 90.2×34.1cm ワシントン、ナショナル・ギャラリー

《受胎告知》(1434-36年頃)は、天使の宝石がちりばめられた天使の衣装の美しさが目を引く作品です。窓から精霊の鳩が降りて来ていて、マリアの前には純潔の象徴であるユリがあります。その手前に椅子が置かれているのは、美術史の用語で「ルプソワール」という、手前に何かを置くことによって奥行を出すという技法によるものです。

 手前の床には旧約聖書の物語が細かく描かれています。一番手前はのちにイスラエルの王となる少年ダヴィデが敵将ゴリアテの首を斬っている場面、その上がイスラエルを救った怪力の英雄サムソンが寺院を破壊する場面です。こういったディテールにもこだわりが見えます。

《受胎告知》(部分)1434-36年頃 油彩・カンヴァス(板から移行) 90.2×34.1cm ワシントン、ナショナル・ギャラリー

 図像的にキリストの誕生、キリストの時代につながっていくという意味をタイルの絵が示しているといわれています。教会堂の一番上にアーチ形の窓があり、その下に柱、そしてまたアーチ形の窓がありますが、上の部分が少し尖っています。上の窓はロマネスク様式で、少し尖ったアーチはゴシック様式です。

 ロマネスクのほうが古く、ゴシックのほうが新しい様式というように窓のアーチを描き分けることによって、古き世界から新しき世界が開けるという、「受胎告知」の意味や意図が語られています。

 細密表現の手腕を見せるだけでなく、「偽装された象徴主義」という、図像的な意図としても利用しているひとつの例です。

《ファン・デル・パーレの聖母子》1436年 油彩・板 122.1×157.8cm ブリュージュ、フルーニンゲ美術館

《ファン・デル・パーレの聖母子》(1436年)は、人間、衣、兜、カーペット、そして空間、すべての表現が素晴らしい作品です。

 画面左にはこの絵が寄進された聖堂の守護聖人である聖ドナティアヌス、右には寄進者の守護聖人である聖ゲオルギウスが、ひざまずいている寄進者ヨーリス・ファン・デル・パーレを聖母子に紹介している場面が描かれています。おそらく当時は聖堂に絵を寄進し、その前でミサをあげる風習があったと考えられます。

《ファン・デル・パーレの聖母子》(部分)1436年 油彩・板 122.1×157.8cm ブリュージュ、フルーニンゲ美術館

 寄進者の顔のシワ、浮き上がった血管、毛穴までがリアルに描かれ、その目には窓が映っています。ゲオルギウスが手にしている兜には、窓からの光と、聖母子がいくつも映っています。さらに鎧の胸部、肩、肘にもマリアの赤い服が映っていて、鎧兜が歪んだ鏡の役割をしています。また、なかなか確認するのが難しいのですが、聖ゲオルギウスの背中の盾にはターバンをかぶった男が映っていて、これはヤン・ファン・エイクの自画像だろうといわれています。

《ファン・デル・パーレの聖母子》(部分)1436年 油彩・板 122.1×157.8cm ブリュージュ、フルーニンゲ美術館 兜に映る光と聖母子(左)、盾に映る自画像(右)

 また、ヤン・ファン・エイクは絵画において空気遠近法を用いています。イタリアの遠近法は一点透視図法が中心で、レオナルド・ダ・ヴィンチが空気遠近法という北方の技法を取り入れたことは第1回で紹介しました。油彩画と空気遠近法は北方からイタリアへと伝わった技法で、イタリアに比べると中世を脱しきれていないところがありますが、今で言う油彩による超絶技巧はヤン・ファン・エイクなど北方から始まりました。

《ロランの聖母子》1435年頃 油彩・板 65×62.3cm パリ、ルーヴル美術館

 空気遠近法を使った代表作が《ロランの聖母子》(1435年頃)です。画面左にいるのは寄進者のニコラ・ロランで、ブルゴーニュ公フィリップ2世のもとでブルゴーニュ公国宰相だった人物です。同じ部屋のなかにいる聖母を前に祈りを捧げているロランと、聖母子が同じ大きさで描かれている点が中世にはない新しい表現です。

 また、マリアの膝のキリストが手を上げてロランに祝福を与えているという、ロランの宗教的な思いが強く出ているものです。そのため個人のミサに使われたものか、「エピタフ」と呼ばれる墓碑銘ではないかという議論がされています。

《ロランの聖母子》(部分)1435年頃 油彩・板 パリ、ルーヴル美術館

 この絵の構図を「プラトー構図である」といった研究者がいました。プラトーとは高台の意味で、重要な人物を手前に置いて、その場所は画面では下にありますが、遠景はここから見下ろすことができる低い場所であることから、高台に立っているような天の高い場所であることがわかります。

 マリアたちがいる部屋の前にはマリアの純潔を示すユリなどが咲く庭があり、庭は旧約聖書にある「閉ざされた庭」を表していて、やはり聖母の処女性を象徴しています。

 眼下に目を移すと、街並みや田園、川、石橋とそこを歩いている人々、船と船に乗っている人々、小さな島の様子、水面の波紋、遠くの山々が描かれています。このような風景描写もヤン・ファン・エイクが初めてといっていいでしょう。光と影と空気を感じることができます。遠くを見れば山並みが徐々に薄くなっていって空と一体になるという、空気遠近法という新しい表現が使われています。

 このような風景描写は『トリノ=ミラノ時禱書』の「洗礼者ヨハネの誕生」場面の下に描かれている風景にその原型を見てとることができます。

画家G『トリノ=ミラノ時禱書』「洗礼者ヨハネの誕生」(キリスト洗礼)(部分) 1420-25年頃 彩色写本 羊皮紙 28×20cm トリノ、トリノ市立美術館

 そして、中景のふたりの人物は、絵画史上初めて登場した「風景を眺めている人物」の図像です。

 すべてにおいてヤン・ファン・エイクの技が発揮された作品だといえるでしょう。