仕事を語ることは、自分自身と自分の人生を語ること

 リレー式にあの夜の仇討ち目撃談を語るのは五人。章題に著者の歌舞伎愛がうかがえて、それも楽しい。

第一幕 森田座の前で通りすがりの客を呼び込む木戸芸者の一八(「芝居茶屋の段」)
第二幕 役者に剣術の振り付けをする殺陣師の与三郎(「森田座稽古場の段」)
第三幕 捨ててもいいような華やかな衣装はないかと、申し訳なさそうに尋ねる菊之助に、赤い振袖を与えた衣装係のあやめ(「衣装部屋の段」)
第四幕 菊之助を長屋に引き取り、我が子をかまうように寝食の世した小道具係の久蔵とお与根夫婦(「長屋の段」)
第五幕 戯作者の篠田金治(「枡席の段」)

 各幕、すべて一人称の一人語りである。聞き役になる若きお侍の姿は、直接には描写されない。話者の目に映った様子が語られるだけだ。江戸の街も芝居小屋も初めて見たというこの若きお侍、謙虚で腰が低く、相手が受け入れてくれるのを待つ粘り強さもあって、好もしい。

 一人語りの一人称は「私」「某(それがし)」「俺」などで、相手(若きお侍)を呼ぶときの二人称は「旦那」「そこもと」「お前さん」「御武家様」など。年齢や身分、ジェンダーで違う日本語の人称バラエティが実感できる見本帳のようだ(翻訳ではこの味が出ないと思うと残念)。

 しかしそれよりなにより目撃談を語った後、若き侍にどうしてこの仕事をしているのか、どうして森田座で働いているのか話して欲しいと請われ、各人が我が半生を語り始める流れが実に読ませる。ある者はあえてコミカルに、ある者は出自を明かすのを恥じるように、ある者は被差別者の哀しみをこらえて、胸襟を開く。

 例えば——吉原生まれで吉原育ちの一八は、座敷で旦那を褒めそやす幇間こと男芸者になったものの、金で買った女には何をしてもいいという客の傲慢を目の当たりにして客に暴力をふるってしまう。泣きじゃくる花魁に、子供の頃は恨んでばかりだった女郎の母が胸に秘めていた哀しみが透けて見えたのだ。

「お前は女郎を身内と思う業から逃れられない。しかし吉原の幇間は、それではやっていけない。ここで耐えていくのは辛かろう」。情け深い師匠の言葉に押されて吉原と決別、森田座の木戸に立ち、キレのいい口上で冷やかしの客を芝居小屋に誘い込む木戸芸者になった。

 殺陣師の与三郎は江戸住まいの御徒士(おかち)の三男坊。十八のとき、道場の先生の甥が何の罪もない老人を切り捨てたことが許せないばかりか、その悪事には目をつぶり、先生が仕官先を用意してくれるのを待てという父にも絶望。家を出奔して街を彷徨う。そして武士にしかないと思っていた忠義が、役者と客の間にもあることを知り、役者達に剣捌きを教える森田座に居場所を見つける。

 衣装係のあやめは、飢饉で貧困のうちに母親を亡くし、隠亡(おんぼう/火葬の仕事をする者)の爺に助けられるも、爺の死で仕立屋の職人に弟子入り。しかし兄弟子の差別感情で死に装束である経帷子しか縫わせてもらえなかった過去を持つ。

 これらを読みながら思い出していたのは、ラジオDJやニュースキャスターにして名インタビュアーでもある、スタッズ・ターケルの『仕事(working!)』という昔の本だった。仕事を語ることは、自分自身と自分の人生を語ること。すなわち職業(職人)図鑑は、人生図鑑でもある。