構成の妙、語りの妙。名もなき者達の物語なのに、こんなにも華やか

 特に興味深いのが、第五幕の語り手である篠田金治(野々村正二)だろう。れっきとした旗本の生まれ。次男の気楽さで放蕩を重ねる中、惚れてくれた総籬(そうまがき)の花魁から逃げ、生まれたときからの美しい許嫁から逃げと、何もせずとも安楽に過ごせる人生に倦んでいた。

 人はいずれ死ぬ。正二はまるで近代人と見紛うような苦悩と空虚を抱えている。読みながら思わず「そこもと、夏目漱石の時代より100年早く生まれた高等遊民であられるか!?」と言いたくなってしまった。

 正二がお気楽な身分と訣別するきっかけとなったのは、上方からやって来た戯作者並木五瓶の一言である。

「若様 面白いもんはいつか誰かが持ってきてくれると思ったら大間違いでっせ」「面白がらせてもらおうったって、そいつは拗ねてる童と一緒や、でんでん太鼓を鳴らせるようになったら、そこから先の退屈は手前のせいでっせ」。

 こうして旗本のぼんぼん人生からはずれ、野々村正二は五瓶のもとで修業、戯作者篠田金治となる。ねだるばかりの「拗ねてる童」とは、私を含め、まるで現代人の肖像画のようではありませんか!

 この金治の段は、絡繰り明かしの段でもある。そして第六幕「国元屋敷の段」での菊之助自身の登場をもって、本書は大団円を迎える。ミステリーの紗幕がはらりと落ちると、出演者が全員並んで笑っている。そう言いたくなるような結末が痛快でたまらない。

 懐かしくて、引き続きスタッズ・ターケルの本をぱらぱらめくっていたら、「天職を求める」(IN SERCH OF A CALLING)という項目があった。ある女性編集者が苦い思いでこう語っている(この本もすべて一人称の一人語り)。

「今の世の中で評価されているのは政治人間の方だと思うわ。政治人間は、勝利しそうだってわかると、協力しそうな人が出てくるのよ。勝者の陣営にいることが肝心だと考えている人々がいて、助力を惜しまない」

 このひそみに倣うなら、この小説は、政治人間によって罠を仕掛けられた者、政治人間に侮蔑された者、政治人間どもから一目散に逃げ出した者達が、流れ流れてささやかな天職に巡り会い、愉快なコンゲームを繰り広げた六幕芝居といえるかもしれない。

 構成の妙、語りの妙、彼らの生き様を通して見えてくる江戸文化と江戸風俗の妙。

 名もなき者達の物語なのに、こんなに華やかなのはなぜだろう。愛、恋、憐憫、恩義や仁愛。人の情という色とりどりの花が、そこかしこに咲いているからだろう。誰が読んでも大満足の逸品だ。