旅行の計画を立てている人もそうでない人も、海外や旅への想いがふくらむ夏休みシーズン。異国を学ぶことによって自身の窓を大きく開いて生まれ変わった、対照的な2人の知の旅とは……? 7月に読みたいおすすめの本を紹介します。
選・文=温水ゆかり
一途な“好き”を貫いた、ドナルド・キーンの “語学青春録”
『私説ドナルド・キーン』は、日本文学の世界的権威であるドナルド・キーン(1922~2019年)に関する初の評伝である。
キーン氏は3作自伝を書いた。日本人文学者らの評伝も書いた。しかし氏自身に関する評伝は、これまでなかったのだという。“え、そうだった!? ”と、ちょっと意表をつかれる。
著者の角地幸男は、キーン著作の日本語翻訳者として知られる元英字新聞の記者で、毎日新聞の徳岡孝夫氏が翻訳から退いた後、英語で書くときの氏の翻訳を手がけて最期まで伴走した。本書冒頭の「ドナルド・キーン小伝」から、年表風にして、キーン氏の足跡を紹介しよう。
1922年
ニューヨーク・ブルックリンの中流家庭に長男として生まれる。父はスペインにも工場を持っていた貿易商で、母はフランス語をよくした
1938年
抜群の秀才であったため、2回飛び級し、16歳でコロンビア大学に入学。離婚した両親に金銭的な負担をかけまいと、ピュリッツァー奨学金を獲得しての入学だった
1940年
タイムズ・スクエアにあった売れ残りのぞっき本ばかりを扱う本屋で、アーサー・ウエーリが英訳した『The Tale of Genji(源氏物語)』2巻を49セントで購入。欧州でヒトラーが台頭して軍靴の音が近づく中、暴力も流血もない流麗な源氏の世界に魅せられる
1941年夏
友人の山荘に滞在し、仲間3人と日本語の勉強をする
1941年秋
4年生になった新学期で、角田柳作の「日本思想史」を取る。受講希望者は他におらず、遠慮していったんは辞退するも、角田先生は一対一で授業を行う
1941年12月
真珠湾奇襲で日米開戦、太平洋戦争が始まる
1942年2月
キーン青年19歳、西海岸へ。カリフォルニアの海軍日本語学校に2回生として入学(6月には卒業式欠席のまま学士号を取得してコロンビア大学を卒業)。語学将校不足から、16カ月の課程を11カ月に圧縮した猛特訓を経て、最優秀学生として卒業生総代に。日本語で卒業の辞を述べる。旧仮名遣いで、「台湾」を「臺灣」と書く正字体の時代にあって、日本語で読み書き会話できるのはもちろんのこと、楷書も行書も草書も読めるようになっていた
1943~45年
海軍中尉としてハワイ真珠湾の海軍情報局に赴任。以後、アッツ島(藤田嗣治に「アッツ島玉砕」という戦争画があるが、キーン氏はこの玉砕の現場に立ち合っている)、キスカ島、アグク島、ハワイ真珠湾、フィリピン、沖縄と異動。1945年8月、グアムで「玉音放送」を聞く
1945年12月
中国・済南から厚木基地へ。原隊復帰を(ハワイではなく)横須賀と偽り、東京に滞在。日本人捕虜の留守家族を訪ねたり、ジープで日光東照宮に行ったりする。1週間後、勘違いを申告、木更津から帰還船に乗る。翌年1月、ホノルルで海軍大尉として除隊の手続きを済ませ、一民間人に戻る
1946年
海軍4年間の日本語体験を携え、コロンビア大学大学院に復学
1947年秋~1948年
1年間ハーバード大学で学ぶ。この時期ハーバードでは、後の駐日大使エドウィン・ライシャワーが日本史の気鋭の助教授として授業を行っていた
1948年
26歳でヘンリー奨学金を得てケンブリッジ大学に留学。日本語並びに朝鮮語の講師を担当しつつ、コロンビア大学に提出する博士論文『国性爺合戦』に取り組む。日本語入門クラスの教材としたのは、「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける(後略)」という『古今和歌集』の仮名序
1953年
31歳。ケンブリッジ大学に籍を置いたままフォード財団の奨学金を得て京都大学大学院に留学。海軍日本語学校時代の親友で、同志社大学で教鞭を執っていた小樽育ちのオーティス・ケーリの紹介で、京都市東山区今熊野にあった奥村邸の離れ「無賓主庵(むひんじゅあん)」に下宿する。表紙の写真はその「無賓主庵」で撮影されたもの(同建築物は現在、同志社大に寄贈、移築されている)。同じ下宿人でアメリカ帰りの永井通雄(教育学者にして後の文部大臣)と終生の友となる。芭蕉の研究に没頭し、狂言を練習する
1955年
2年間の京都留学を終えてコロンビア大学助教授に就任
1960年
教授に昇格
キーン氏は1950年代の後半から、1年の前半はニューヨークのコロンビア大学で教え、後半は日本で過ごす往復生活を始める。1974年には北区西ヶ原にマンションを購入。2011年にコロンビア大学を正式に退職し、「愛する日本に移り、余生を過ごす」と表明。マスコミでは東日本大震災を機にとドラマチックに報道されたが、準備はその前から進んでいた。たまたま一緒になったに過ぎないと、著者の角田氏は証言する。
2012年3月8日
日本に帰化。3月27日、浄瑠璃三味線奏者上原誠己と正式に養子縁組が成立
2019年2月
96歳で逝く。墓石に黄色い犬(キーン)が彫られた自宅近くの無量寺に眠る