引きこもり青年をコミュ力ある人間に変身させる魔法
一方2023年の日本で、ルーマニア語に生まれようとしている青年がいる。『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』という、長~いタイトルの半自伝本を書いた済東鉄腸(ペンネームです)だ。
1992年千葉県生まれ。大学は出たものの、就活に全敗。鬱っぽい引きこもりになり、「子供部屋おじさん」(40歳以上で未婚、実家暮らしの男性のこと)の未来自画像がチラつくが、思わぬところに突破口が。
私が思いつくルーマニア関連話といえば、大きな乳房がプレーの邪魔になるとして減房手術をし、2018年の全仏、2019年のウィンブルドンとグランドスラムを2度制した世界ランキング元1位の女子テニスプレイヤー、シモナ・ハレプに尽きるのだけれど、著者の場合、きっかけはインターネットを通じて見る日本未公開映画だった。
見まくって、ノートやブログに映画評を書きまくった。中でもコリュネル・ポルンポユ監督のルーマニア映画『#&*¥$℃』(ルーマニア語題名の一部が転記不能のため割愛します)で、「俺」の人生は一変してしまう。
映画のストーリーはこうだ。男性警官クリスティがマリファナを吸っている高校生を逮捕すべきかどうか悩む。現行のルーマニア法では違法だが、EUに加盟すれば法律がEU基準に改正されて違法ではなくなる(ルーマニアのEU加盟は2007年)。署長は躊躇せず少年逮捕を命じる。
言語そのものがテーマになったかのような映画だったという。往年の名曲をきっかけにルーマニア語の修辞法が議論されたり、定冠詞の書き間違いで、恋人と言い争いになったり。クリスティが良心を理由に少年の逮捕を拒むと、署長はルーマニア語の辞書を持ち出し、「良心」と「良心の呵責」と「法」の項目を読めと迫る。
済東鉄腸氏は熱くこう書く。「ここまで言語への思索を深めた映画は後にも先にもお目にかかったことがない」。ルーマニア映画をもっともっと知りたいと思った。それにはルーマニア語を学ぶことが必要不可欠だった、と。
かくして引きこもりのままルーマニア留学を試みる。まず希少なルーマニ語入門書を買い、独学を始め、ルーマニア用のアカウントを作り、ルーマニア人と日本人のコミュニティに登録。交流を重ねて地道に関係を築き、友達リクエストを受理してもらった。
プロフィールに「ルーマニアが好きな日本人です。ルーマニアに友人を作りたいです」と書き、Facebookで4000人くらいのルーマニア人に友達リクエストを送ったのだという。
早稲田大学に留学し、しばらく日本に住んでいた人類学者にして小説家のラルーカ・ナジさんと六本木で蕎麦を一緒に食べ、彼女の紹介でルーマニア語に翻訳した自分の小説が文芸誌に掲載されることになり、欲を出して「日本の暗部についての短篇をルーマニア語で書いています。興味ありますか?」と投網すると、ネット文芸誌を主宰している小説家ミハイル・ヴィクトゥスがすぐに反応。文芸評論家ミハイ・ヨヴァネルの知己も得る。
どうですか、引きこもりを自称しつつ、ルーマニア窓だけ開閉自在のこの開きっぷり!? 電子というツールが、引きこもり青年をコミュ力ある人間に変身させる魔法に感動してしまう。
村上春樹の話題は必ずふられるので避けようがないとか、『推し、燃ゆ』をルーマニア語に翻訳するときのこだわりのキモとか、面白い話が次々と出てくる。実は高校生の頃から小説家になりたいと思っていたとか、大学では日本文学を専攻したなどの打ち明け話も。ルーマニア語は引きこもりの無手勝流の一発逆転狙いではなかった、地下水脈は流れていたのだ。
ハイカルチャーのドナルド・キーン氏、サブカルチャーの済東鉄腸氏。
キーン氏の書く日本語の文章は「かなづかひ、漢字、文法、一つの誤りもない」と、吉田健一、中村光夫、福田恆存、大岡昇平、三島由紀夫らを驚かせた。
一方、済東鉄腸氏は時々ツッコミが入る「正しいルーマニア語」にモヤモヤする。「延々と」が「永遠と」に転化するオモシロ日本語のように、言語にはどんな可能性だってあっていい。「日系ルーマニア語は俺がつくる」と意気軒昂。
外国語を修得する旅は、習熟に向かいながら、いつも澄んだ目をしている少年の旅のように思えてならない。