10代から20代にかけての“語学青春録”

 上記の年表は、キーン氏と日本語、あるいは日本との関係に焦点を絞って作った。英語や日本語で達成された研究者としての「業績」や「成果」——例えば完成まで25年の歳月をかけた『日本文学史』、『百代の過客』(読売文学賞、日本文学大賞)、『明治天皇』(毎日出版文化賞)や正岡子規、石川啄木などの一連の評伝、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫や安部公房など名だたる文壇人との交遊録、対談、鼎談集など千点以上にのぼる著作の足跡には触れていない。

「業績」や「成果」は、行動を起こせばいつでも書店や図書館など身近な場所にあると思うからだ。英語に堪能な方だったら、キーン氏がいちばん気に入っているという英訳『Essays in Idleness(『徒然草』)』を手に取ってみられるのもいいだろう。

 私がこの小伝で最も心揺さぶられたのは、キーン氏の10代から20代にかけての“語学青春録”とでもいいたくなるような一途な“好き”だった。日本語や日本文学への情熱が、人々や文化への興味として広がり、やがて共感や愛情や理解という土壌となって、その人自身を潤す。

 戦争はまた外国語を武器にする情報戦でもある。キーン氏が海軍日本語学校に入学した頃、アメリカは“日本人には絶対解けない暗号”として、自国内異言語であるナヴァホ語を採用。ナヴァホ族の青年達を通信兵として猛特訓した。

 また同じ頃、キーン氏の母校コロンビア大の助教授だった文化人類学者ルース・ベネティクトは、戦争情報局で日本人&日本文化研究に着手している(その成果は戦後すぐ『菊と刀』として出版され、日本でもベスト&ロングセラーに)。

 これらはいずれも戦争勝利や占領政策のためである。しかし海軍の情報将校だったキーン氏のそれには、合理的な目的が感じられない。没我とか没入といったパッションの表れに見える。いってみれば言葉が連れて行く異世界に魅せられた旅人のようだ。

 最初の赴任地であるハワイ真珠湾で日本語を翻訳していたときのエピソードが忘れ難い。

 キーン青年はある日、押収された大きな木箱を開ける。中には文書や小さな手帳が入っていた。不快な異臭が漂い、その臭いは手帳についた乾いた血痕から出ていた。

 気味悪かったが、翻訳を始める。手書きの文字は読みにくかった。しかし印刷物と違って、それぞれの肉声が記された日記は感動的だった。死を覚悟し、手帳を発見するだろう米兵に宛てて“この日記を家族に届けてほしい”と英語で記しているものもあった。

 キーン青年は禁を犯し、手帳を家族に届けようと机に隠す。が、上官に見つかり、没収されてしまう。

 キーン氏は言う。「私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだった」「もっとも、出会った時にはすでに皆死んでいた」のだけれど、と。学術の森に住む人でありながら、高みにのぼらず、名もなき人々の声を聞くというキーン氏の出発点がしのばれる。

 この評伝は、「ドナルド・キーンは日本で正当に評価されたたことがないのではないか」という著者の静かな怒りから書かれた。キーン氏の代表作にして労作『日本文学史』に反応したのは詩人や批評家、小説家、劇作家などであり、国文学者や日本文学研究家などは賛意も反論も示さず黙殺したらしい。

 某東大教授などは、キーン氏が日本語で読み書きができるばかりか、古文書も読めるなどとは夢にも思わなかったのだろう。キーン氏に“(日本文学は)全部翻訳でお読みになったんでしょうね”と言ったという。日本人の英仏文学者が現地で「あなたは日本語に翻訳されたものを読んで我が国の文学を研究してるんでしょう」と言われるようなものだ。

 無邪気な悪意としかいいようがない。

 本書の「エピローグ——キーンさんとの時間」が愉しい。24歳の駆け出し記者だった著者は取材後、北区西ヶ原のマンションに呼ばれて手料理をご馳走になる“飲み友達”になる。先述の通り、途中でキーン氏の翻訳者になるも、愉しいディナーの時間は続いた。

 牛フィレ肉のレアステーキ、鶏の胸肉とアボカドの料理、ビーフストロガノフ、海老のリゾットなどがキーン氏の得意料理。もちろんワイン付きで供された。

 人は国に生まれない、言語の中に生まれると言ったのは誰だっただろう(恥ずかしながら思い出せない、スミマセン)。ドナルド・キーン氏は意識的に、日本語の中に生まれ直すことを選び取った人のように見える。