大部屋出身だった初代、頂点に立った二代目
初代猿之助は、1855年、安政2年に生まれている。400年以上続く歌舞伎には、團十郎、菊五郎といった長く続く大名跡が多くある中で、初代がペリー来航の2年後に生まれた猿之助の名跡は新興とも言えるだろう。
この初代猿之助は、大部屋出身だったのに、技芸にすぐれていて異例の出世をしている。師匠の九代目團十郎に無断で『勧進帳』を演じ、一時破門にされるなど波乱に富んだ舞台人生だった。これからの役者には必要だと言って、歌舞伎界で初めて、長男であるのちの二代目猿之助を中学に進ませたことでも知られる。
「当時としてはめずらしく、二代目猿之助(1888年、明治21年生まれ)は、ヨーロッパに外遊しています。当時でいう『書生っぽ』な人で、外遊から帰国後、数多くの革新的な作品を作ります」(児玉さん・以下同)
二代目猿之助は、外遊先のパリで、ディアギレフ主宰の伝説のバレエ団バレエリュスを観ている。西洋の舞台芸術の最先端に圧倒されながらも、かえって、「いや自分たちには日本舞踊がある」、との意を強くして帰国したのち、さまざまな作品を生み出していった。
文明開化以降の日本で、歌舞伎も西洋化・近代化を目指すことを余儀なくされた。高尚な芸術たらんとして観客の支持を失いつつあった状況に、ある種の待ったをかけたのが、二代目猿之助だったといえる。
外遊仕込みの新しい挑戦もし、夏目漱石の『坊ちゃん』といった当時の現代文学を歌舞伎にする新作を生む一方で、江戸の庶民文化に根ざした『弥次喜多道中』などで大きな人気を博し、昭和30年代には歌舞伎界のトップにまで上り詰めた。