取材・文=吉田さらさ 写真=フォトライブラリー
浅草神社と浅草寺
明けましておめでとうございます。2023年もお気に入りの神社のご紹介をしていきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。
さて今回は、東京都民の方にとっては馴染み深い浅草神社をご案内しよう。浅草寺ではなく浅草神社だ。浅草寺の方がよく知られているが、浅草神社はその浅草寺の本堂のすぐ隣にある。現在は別のものだが、両者は歴史的に深い関係があり、ある意味一体とも言える。したがって、浅草寺にお参りする際は、浅草神社にもお参りする方がよりよい。
雷門をくぐり、仲見世通りを歩いて行く。宝蔵門の手前まで来ると、左側の塀に浅草寺の歴史を描いた絵が並んでいる。
最初の絵は浅草寺ができる以前の浅草の風景で、隅田川のほとりには、まだ小さな漁村しかない。次の絵は隅田川に浮かぶ小船を描いたものだ。船の上には二人の人物がおり、水中に放たれた網に何か光るものが引っかかっている。
実はこれが浅草寺のご本尊の観音様である。二人は檜前浜成、竹成という漁師の兄弟で、魚を獲るための網で黄金の観音像を引き上げてしまったのだ。
続いて次の絵を見てみよう。左上の方に観音像を祀る草庵があり、右下に「土師中知」と書かれたお坊さんのような人物がいる。この人は土地の長で、「檜前兄弟が持ち帰ったのは聖観音像で、一心にこの観音様に祈れば、どんな願いも必ず叶えてくれる」と説いた。そして里の童たちが作った草庵にこの像をお祀りした。それが浅草寺の始まりだ。
これは飛鳥時代、推古天皇36年(628年)の出来事である。推古天皇は聖徳太子の叔母さんに当たる方で、その聖徳太子が法隆寺を建立したのは607年とされる。浅草寺の歴史は江戸の街の歴史よりはるかに古く、法隆寺と肩を並べるほどなのだ。
浅草寺創建にまつわるストーリーを頭に入れた上で宝蔵門をくぐる。通常はまっすぐ浅草寺の本堂に向かうところだが、今回は、その右側にある鳥居に注目。これが浅草神社である。
前述の土師中知はその後僧侶となり、浅草寺は多くの参詣者を得て発展した。あるとき土師氏の子孫の夢に観音様があらわれ、「わたくしを海から引き揚げてくれた檜前兄弟と祀ってくれた土師中知を神として祀れば、浅草はますます繁栄するでしょう」と告げた。そこで浅草寺境内に、この三人を祭神とした「三社権現社」が建てられた。
当時は神仏混淆が当たり前で、浅草寺と三社権現社は共存していたが、明治時代の神仏分離令により社名を三社明神社に改め、明治6年に、さらに浅草神社と名を改めて浅草郷の総鎮守とした。つまり、東京の初夏の風物詩である三社祭の「三社」とは檜前浜成、竹成、土師中知のことで、三社祭は、浅草総鎮守である浅草神社の祭礼なのである。