文=藤田令伊
本州最南端にあるユニークなお寺
ふだんは信仰心などろくに持ち合わせていないのに、お正月になるとにわかに神社やお寺に気持ちが向くようになるのは私だけだろうか。ずいぶん手前勝手な信心だが、まあ日本人の平均的なところかとも思う。
ともあれ、多くの人にとってお正月は初詣、初詣はお寺や神社ということになるわけだが、紀伊半島の最南端あるいは本州最南端にユニークなお寺がある。このシリーズでは、これまでも「お寺のアート」を折にふれて紹介してきたが、そこにも驚くべき美術品が所蔵されている。
JR紀勢線串本駅から歩いて10分ほど、細い道が入り組んだ住宅街のなかをゆくと、ひとつのお寺が忽然と姿を現す。名を無量寺という。ふだんは訪れる人もあまり多くなく、たいていは静かな空気に包まれている。
玉砂利が敷かれた門前を「ジャッ、ジャッ」と足音を鳴らしながら進み、山門をくぐると、すぐ右手に「串本応挙芦雪館」という看板を掲げた建物が目に入ってくる。じつは、無量寺は円山応挙とその弟子・長沢芦雪と縁の深い寺で、両者の絵が伝えられているのである。
串本応挙芦雪館は「日本一小さい美術館」を自称する。応挙や芦雪らお寺の宝物を護っていくため、地元の人々の協力を得つつ、昭和36年に開設された。館内には掛け軸を中心とした絵画や書などが常時展示されていて、応挙や芦雪のほか若冲や白隠なども見ることができる。
が、ここの白眉ともいうべき作品は別の場所に収められている。応挙芦雪館の斜め向かいの収蔵庫がその場所である。
美術館本体ではなく収蔵庫のほうにお宝があるというと奇妙に聞こえるかもしれないが(その理由は後述する)、この収蔵庫こそ本州最南端まで出かけてきた目的の地なのだ。
鑑賞者に緊張感をもたらす「龍」と「虎」
お寺の人に案内されて収蔵庫へと向かう。入口は見るからに頑丈な鉄扉で、外部の湿気やほこりなどが庫内に極力入り込まない造りになっている。鉄扉を入ってもまだ庫内ではない。やはり環境維持のためと思われるが、「外」と「内」のあいだに中間の部屋ともいうべき空間が設けられてあり、そこを通り抜けて、ようやく収蔵庫内に入ることができる。きわめて厳重に環境が管理されているのだ。
薄暗い収蔵庫の中央に、左右向かい合わせでズラリと襖が並べられている。これこそ、長沢芦雪畢生の大作《虎図》と《龍図》である。向かって左が《虎図》、右が《龍図》。どちらも巨大な作品で、それぞれ襖6枚にわたって描かれてあり、長さはじつに7メートルにも及ぶ。ともに重要文化財に指定されている。
虎も龍も、芦雪独特の大胆な筆致で描かれている。筆運びにためらいは一切ない。ところ狭しとばかり、襖のなかで虎と龍が躍動している。
虎は眼をつり上げ、毛を逆立てて背中を丸め、獲物にロックオンしたかのような緊迫した気配を湛える。ヒゲはまるで素粒子が飛び出したみたいに放射状の線を描く。体に比べて足が異様に太く大きく、いまにも弾けて飛び出しそうだ。
龍のほうも負けてはいない。大きな鉤のような爪を振りかざし、中空に浮いてこちらを凝視する。その迫力は半端ではない。龍のヒゲは途中から稲妻と化しているように見え、もはや現実と非現実の境い目がわからない。
鑑賞者はこれら虎と龍に挟まれて、ただごとではない緊張感に身じろぎひとつできないくらいだ。これほどの至近距離で《虎図》と《龍図》という重要文化財を見ることができるというのは、思えば驚くべきことで、美術館でガラス越しに作品を見ることに慣れた身には強烈なインパクトをもたらす。
かような鑑賞体験はめったにできるものではなく、ぜひお出かけになって自分の眼で確かめてもらいたいのだが、一点注意すべきことがある。無量寺は串本の地にあるため海に近く、湿気や塩分の影響を受けやすい環境に立地している。これらは襖絵や屛風にとっては大敵である。そのため、ここでは上記のようにごく厳重に作品が管理され、《虎図》と《龍図》も収蔵庫のほうに置かれているのである。
収蔵庫の扉は作品保護のために悪天の日には開けることが許されない、すなわち実物を見ることができない。そういうときにそなえてレプリカが美術館のほうに展示されているのだが、正直、レプリカと実物の鑑賞差は大きい。ということで、こちらを訪れる際には天気にも留意していただきたい。
本州最南端という立地のためか、かなりの美術好きでもここのことを知る人は案外少ない。まさに知る人ぞ知るアートスポットである。