劇界の孤児から「スーパー歌舞伎」まで成功させた三代目

 続く三代目猿之助は、歌舞伎役者で初めて大学を出て、次々と新しい舞台を生み出したことで知られるが、その道のりは波乱万丈だった。まずは襲名後すぐに歌舞伎界の頂上に君臨していた祖父・猿翁(二代目猿之助)と父・三代目段四郎をなくしている。それは、決定的な悲劇だった。

「彼の三代目猿之助襲名披露公演に、祖父の猿翁も父の段四郎も病気で出られなかった。それでも猿翁は最後の力を振り絞って、『千秋楽までの最後の三日間、口上だけは出る』と言い張り、段四郎もそれに従いました。猿翁は絶対安静で動かすことなどできない状態だったのに、ドクターは『この人はそのために生きているんだから』と言って万端準備して舞台袖に付き添います。そのドクターが、後に聖路加国際病院院長となる日野原重明さんでした」

 猿翁と段四郎はまもなく息をひきとり、三代目猿之助は劇界の孤児となった。「自分のところに来たらどうか」と誘った大幹部もいたが、彼はそれを断って独立独歩で行く道を選ぶ。

「歌舞伎は、後ろ盾があってこそ役がつき、やっていくことができる世界。ひとりになったら当然干されるわけです。三代目猿之助は、役が付かない同世代の若手何人かと東横ホールなどで腕を磨いたり、自主公演をやったりした。知られていない作品を復活させたり、宙乗りで当たりを取ったりしていきました」

 猿之助が観客を魅了した舞台のエッセンスは、新しいものばかりではない。大阪の道頓堀には上演されなくなった台本の数々があり、江戸時代から伝えてきたのに使われなくなっていた古老たちの技術があった。それらを生かすことによって狂言の数々がよみがえったのだ。

「葛籠が空中で2つに割れて石川五右衛門や天竺徳兵衛が葛籠を背負っている形の宙乗りになるとか、小栗判官が乗りこなした荒馬が碁盤の上に後ろ足2本で立つといった、『昔の仕掛けを知ってますよ』という人たちから技を吸収したのです。三代目猿之助は、近代の歌舞伎が捨てていったものを掘り起こし、それ以前のノウハウや技術を取り戻すことで猿之助歌舞伎を作ったわけです」

 あんなものは歌舞伎ではないと酷評する人がいる中でも、観客は入り、三代目猿之助は地歩をかためていった。1984年にはパリのシャトレ座からオペラ『コックドール(金鶏)』の演出を頼まれる。その経験もきっかけとして、派手なエンタテインメント要素が強く、劇場全体を使ったスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』『オグリ』などのヒット作も連発し、人気を博していく。

「三代目猿之助は、歌舞伎界の中に猿之助一座という別の集団を作りあげた。松竹にとっては大事なドル箱です。昭和60年の先代十二代目團十郎襲名公演、名だたる役者が集結する中、猿之助だけは出ないで別の舞台をやっていた。あれだけ何十年に一度のお祭りをやっているときにも、ちゃんと別動隊がいるという、歌舞伎界にある種の厚みを作ったということでしょう」

 1965年、三代目猿之助は女優の浜木綿子と結婚し、息子・香川照之が生まれたものの離婚。原因とされる大恋愛の相手は16才年上で、自身の踊りの師匠である藤間勘十郎の妻、藤間紫だった。

「離婚して母親が子どもを連れて行っても、歌舞伎の稽古はさせるという家もありますが、浜木綿子さんはそれをしなかった。その代わりしっかり教育して東大に入らせたわけですね」

 やがて、20年の時を経て、父子の関係は修復された。2011年、妻の藤間紫を亡くし、脳卒中で倒れて不自由な体となった三代目猿之助は、二代目猿翁を襲名することを発表した。同時に甥である亀治郎(1975年、昭和50年生まれ)が四代目猿之助を襲名、香川照之は九代目市川中車、その長男は五代目市川團子の名で歌舞伎の世界に入ることとなり世間を驚かせた。

 香川照之は、『半沢直樹』の敵役を始めとしたテレビ・映画での活躍と並行して、40代で歌舞伎の舞台に立ち始めた。2023年5月の明治座公演にも出演、6月の歌舞伎座大歌舞伎では『傾城反魂香』で主役の浮世又平を演じる。