「伝通院」と号す

 その後の於大については、あまりわかっていない。

 数々の危機を乗り越え、戦国乱世を駆け抜けていく我が子を見守り、年齢を重ねていったのだろうか。

 夫の久松長家は、於大に先立ち、天正15年(1587)3月14日に62歳で没した。於大60歳のときのことである。

 長家は、清田(愛知県蒲郡市)の安楽寺に葬られた。

 翌天正16年(1588)、於大は安楽寺で、授戒を受けた。

 於大は「伝通院」と号し、二年間、安楽寺に住して、長家の菩提を弔なったと伝わる。

 

於大の死

 於大の死は、夫・長家の死から15年後、慶長7年(1602)に訪れた。

 この年、於大は、伏見城(京都市伏見)にいる家康の招きを受けて、上京した。

 そして、5月18日には、ムロツヨシ演じる豊臣秀吉の正室であった高台院のもとを訪ね、22日に参内し、23日に豊国社に参詣した。

 これらは、徳川家康の生母としての立場で行われたという(戸田純蔵『徳川家康の生母 於大の方の一生』)。

 だが、於大は7月に病に罹ってしまう。

 家康は病気治癒を祈願させるなど手を尽くしたが、快復は叶わなかった。

 8月28日、於大は伏見城で、永遠の眠りについた。

 享年75、家康が征夷大将軍に任官し、「江戸幕府」が成立する前年の死であった。

 できるなら、家康の江戸開幕を見届けたかっただろう。