家康の誕生
翌天文11年(1542)、於大と広忠の間に男子が誕生する。
その男子こそが竹千代——のちの徳川家康である。
だが、於大と家康は天文13年(1544)、家康が数え年で3歳のときに、引き離されることとなる。
於大と広忠は離縁し、於大は緒川水野家に戻ったからだ。
家康が生まれた翌年の天文12年(1543)7月、於大の父・水野妙茂が死去。妙茂の嫡子・水野信元が跡を継いだ。
通説では、この信元が今川氏と敵対する織田氏についたため、今川方である広忠は於大を離縁し、緒川水野氏と断交したといわれている。
だが、小川雄氏は「天文12年の時点では、今川氏と織田氏の間に対立は起きていない。岡崎松平氏と決別した後も、緒川水野氏は今川氏との関係を維持しているため、通説の構図は成立しない」としている(戦国史研究会『論集 戦国大名今川氏』 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」)。
いずれにせよ、於大は離縁して、実家に戻った。
当時、政治的な関係が変化しても、離婚はほとんどみられないので、珍しいケースだという(黒田基樹『家康の正妻 築山殿』)。
離縁後、広忠は田原城(愛知県田原市)の戸田宗光の娘・真喜姫をと結婚した。
於大もまた、再嫁することになる。
於大の再婚相手は?
広忠と離別した於大は、刈谷城(愛知県刈谷市)の北東にあった椎の木屋敷で、一時的に暮らしたと伝わる。
刈谷城は於大の父・水野忠政が天文2年(1533)に築いた、水野氏の主城だ。
離別から3年後の天文16年(1547)、於大はリリー・フランキー演じる阿久比城(愛知県阿久比町 坂部城とも)の城主・久松長家(系譜類では俊勝)に再嫁した。
この婚姻は、兄・水野信元の意向によるものだという。
於大と長家は、三男三女(三男四女とも)の子に恵まれた。
再嫁しても、於大は家康を忘れることはなかった。
衣服や菓子などを贈り、音信を絶やさなかったと伝わる。