文=松原孝臣 撮影=積紫乃
忘れていない2019年の世界選手権
昨シーズンは北京オリンピックで銅メダルを獲得。世界選手権では初優勝を遂げ、日本女子では浅田真央以来8年ぶりの金メダリストとなった。成績もさることながら、ミスのない制度の高さとともにプログラムの世界観を豊かに伝える演技はひと際輝いた。
オリンピックイヤーが明けて迎えた今シーズン、ときにうまくいかない大会もあったが、昨年末の全日本選手権で圧巻の演技を見せて優勝したように、坂本花織はいまや押しも押されもせぬ世界のトップスケーターとして活躍を続ける。
シーズンを過ごしてきて、今、目前には、シーズン最大の目標である世界選手権が控える。この大会に、最大の目標であるということ以上の格別の思いをもって臨もうとしている。
坂本は、今もあの日を忘れていない。
2019年3月22日。
その日、世界選手権の女子フリーが行われた。場所はさいたまスーパーアリーナ。埋め尽くされた観客席のもと、スケーターたちの演技は進み、最終グループを迎えていた。坂本もその中にいた。
日本代表として大会に出場していた坂本はショートプログラムで完璧な演技を披露し自己ベストを大幅に更新。2位と好スタートを切ってフリーを迎えていた。
フリーでもその好調はかわらない。
プログラムは『ピアノ・レッスン』。曲が始まると、冒頭から持ち味である高さと幅のあるジャンプを1つ1つ成功させていく。ジャンプに限らない。滑らかなスケーティングとともにリンクを雄大にいかした滑りを見せる坂本に客席から拍手が降り注ぎ、場内の熱気は高まっていった。
そのまま進んでいくかのように思える中、思いがけないことが起きたのは後半の演技が進んだときだった。予定していたトリプルフリップ-ダブルトウループの連続ジャンプを迎えた。その1つ目、トリプルフリップが1回転になり、結果、単独ジャンプで終わった。
貴重な得点源となるはずのジャンプでの失敗が響き、最終的に5位で大会を終えることになった。それがなければ、表彰台に登るのは確実であっただろう。
坂本はそのときのことを振り返り、こう語る。
「あのとき、メダルが頭にちらついて・・・『これを決めればメダル』って思ったらパンクしちゃって」
そのときの場内の空気もはっきりと記憶に刻まれている。
「『あー』っていうお客さんの声が、聞こえましたね。そのときは自分も『ああっ』と思ったので。聴こえてきた声とか自分の感情とか、もうほんとうに忘れられなくて」