苦境が叫ばれて久しい日本のものづくり。現在もその傾向は続き、『2018年版 ものづくり白書』(経済産業省)では「人材の量的不足」と「熟練技能者の技能(継承)」に対して課題を抱えていると報告されている。日本のものづくりを取り巻く環境には、暗雲が垂れ込めているのだ。そんな中、独自の取り組みを次々と繰り出し、世界でも存在感を放つものづくりの現場がある。
旭川家具――。知らない人も多いかもしれないが、これまでオープンイノベーション的な視点でさまざまな施策を実施し、着実に成果を挙げてきた北海道の一大家具産地である。今回は、その成長戦略に迫る。
産業の発展とバブル期の危機
戦前に日本国内の木工職人が旭川に移住し始まった旭川家具の歴史。1949年に「重要木工集団地区」の指定を受けると、当時では他に例を見ない地元企業による産地での展示販売会「旭川木工祭り」を開催したり、工芸指導所を設立したりと、積極的な成長戦略で地力をつけていった。
順調に進んでいた旭川家具の発展に大きなブレーキをかけたのが、バブル期の需要の落ち込みだ。戸建てからマンションへと住環境が変化していったことも影響し、婚礼家具に代表されるタンスなどの「箱物」といわれる家具が売れなくなっていった。
その後、箱物家具からテーブルや椅子などの「脚物家具」に製品転換を行ったことで、旭川家具は衰退を免れた。製品転換に乗り遅れてしまったメーカーの多くは、この時期に廃業を余儀なくされている。
先進的なデザインとの出会い
こうした厳しい時代背景の中、旭川家具にさらに大きな転機が訪れる。1990年に第1回国際家具デザインフェア旭川が開催され、メインイベントとしてデザインコンペティション(以下、デザインコンペ)が行われた。世界中のデザイナーに家具デザインの募集を呼びかけて審査を行い、受賞作を旭川で製品化するという企画だ。
その後、3年に1度のペースで約30年にわたり開催されてきたこのデザインコンペには、旭川の高い技術力に魅力を感じるデザイナーが国内外からこぞって参加するようになっているという。「世界的デザイナー × 旭川の技術力」という構造で製品化された家具が次々と世に出ていくことで、次第に旭川家具が「デザインと質を兼ね備えた家具」としてのブランド力を持ち、世界でも存在感を放っていくことになった。外の力を取り込みながら自らの実力を最大限に引き出し、それを再び外に向けて発信していく仕組みは、他の多くの産業においてもオープンイノベーションを考えるヒントになるだろう。