晩年の稲盛和夫
写真提供:京セラ(以下同)

 20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。

 これまで、稲盛氏の企業変革の歩みを、京セラ創業から経営の第一線を退くまで、時系列でたどってきた。果たして、変革の原動力とは何であったのか。さらに、変革の連鎖がもたらした企業発展の真の意義とは何か。稲盛氏が生涯をかけて示した経営の「本質」に迫る。

「企業変革」の動機はパラノイア

 本連載開始に当たり、「稲盛は、間違いなく生涯にわたって変革を続けた、イノベーティブな経営者であった。しかし、その変革とは、京セラにおいては、積年の経営課題を劇的に克服してみせることでも、ジリ貧にあった事業を反転飛躍させることでも、ましてや破滅の危機に瀕した会社を起死回生蘇らせることでもなかった」と述べた。

 その後、16回に及んだ連載で稲盛和夫の企業変革の歩みをご紹介してきたが、その変革とはやはり、逆境に挽回を図るのではなく、順境にあって安住を否定し、現状を改善し続けることであった。

 その意味では、稲盛の経営はドラマ性に乏しい。ジェットコースターのようなアップダウン、あるいはスリルとサスペンスを伴わないからだが、そんな不安定要素を経営から排除するためにこそ、稲盛は日々変革を行ってきた。稲盛自身の言葉を借りれば、変革を重ねることで、常に「土俵の真ん中で相撲を取る」ことに努めてきたのであった。

 しかし、常に安全弁を備えるような経営に、実際に取り組むことは容易ではない。人間は追い込まれなければ、現状を変えるという難事に取り組まないからだ。なぜ、稲盛に日々の変革が可能であったのか。