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1938年に操業を開始し、トヨタ自動車における最初の自動車専用工場となった「挙母工場」(現トヨタ本社工場)と、本田技研工業(以下、ホンダ)が造った日本初の国際レーシングコース「鈴鹿サーキット」には建設方針に「ある共通点」があった。一体何か? 社史研究家の村橋勝子氏が両社の社史をひもとき解説する。
トヨタの自動車事業進出
トヨタ自動車の源は、豊田佐吉が1926(大正5)年に設立した豊田自動織機製作所である。佐吉が1925(大正14)年に、社名に“自動”を入れた理由になった発明「無停止杼換式自動織機」の特許権を、1929(昭和4)年に、当時世界一の紡織機メーカーであったイギリスのプラットブラザーズ社に売却し、そのお金で、息子・喜一郎が自動車の研究を始めたことはよく知られている。
この自動織機は、縦糸が切れると自動的に運転が止まり、横糸がなくなると自動的にこれが補われる仕掛けになっており、一人の少女で50台を取り扱うことができる革新的な機械だった。売却額は10万ポンド、当時の邦貨で100万円。
当時、自動車は三井、三菱、住友といった財閥でさえ、その事業化にちゅうちょしたほど、極めてリスキーな事業とされていたが、佐吉の逝去から3年近く経った1933(昭和8)年9月、喜一郎は豊田自動織機製作所内に自動車部を設置して、佐吉の頃からの夢だった自動車事業への進出を正式に決定、工場用地の選定を開始した。
当初から、将来を見据えて「大規模工場における量産体制が国産自動車確立の条件」と考えていた喜一郎は、工場建設に適する広大な用地を探し求めた。最終的に選んだのは、塩害をもたらす潮風の影響が少ない愛知県西加茂郡挙母(ころも)町(※)南部の論地ヶ原で、土地面積は約60万坪(198万平方メートル)。雑草や雑木林で覆われ、丘あり谷あり、使いものにならない広大な荒地だった。
※現在の愛知県豊田市
この地を選んだ理由が「40年史」に4つ挙げてある。






