1990年ごろ、稲盛は海外展開を積極的に進める(米ワシントン州のバンクーバーにて)
写真提供:京セラ(以下同)

 20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。

 1990年前後、日本企業は海外に向け盛んに巨額投資を行ったが、その多くがその後の経営につまずいた。一方、京セラは、同時期に米国上場企業を買収した後も、良好な関係の下、順調な経営を続けた。稲盛が先駆けて実現した、真のグローバル経営とはどのようなものだったのか。

M&Aで相次いで米エレクトロニクスメーカーをグループへ

 1985年のプラザ合意を受けて、急速に円高が進み、日本企業は大打撃を受けた。政府が円高不況脱却のため、大幅な低金利政策を実施した結果、不動産や株式市場に資金が流入し、実態を伴わないレベルまで価格が高騰した。1980年代後半から1990年代初頭まで続くバブル景気である。

 多くの日本企業が膨れ上がる資金を元に、米国をはじめ海外企業、資産の買収を図った。

 1989年10月の三菱地所によるロックフェラーセンターの買収、1990年11月のパナソニックによる米総合エンターテインメント大手MCAの買収がその代表であろう。しかし両者とも、巨額の損失を計上し、売却を余儀なくされた。残ったのは、現地の人々の反感であり、ジャパンバッシングがさらに高まった。

 京セラもこの時期に、海外企業のM&A(合併・買収)を積極的に進めた。経営戦略として、世界的な総合電子部品メーカーになるという構想を稲盛が描いていたからである。進展していく世界の電子部品市場において、あらゆるニーズに応えられるワンショップ体制を築くことを目指した。