食通と谷崎文学
ところで、鷗外、荷風、谷崎の3人には共通点がありました。
この3人は、いずれも「食通」でした。鷗外は、ご存じのように、衛生学の専門の医学者で生ものは絶対に口にしないという偏食ですが、「食」にこだわりがあるという意味では、「食通」であったと言えるでしょう。
谷崎は、裕福だった子供の頃から美味しいものを食べていました。小学校時代は中華料理店・偕楽園の息子の笹沼源之助と親しくし、また精養軒や彌生軒にもよく通っていました。彌生軒は日本橋茅場町にあった西洋料理店で、現在、やよい軒をフランチャイズするプレナス創業者の塩井末幸の祖父・民次郎が開店した店です。民次郎は精養軒で修行したフレンチの専門家で、谷崎は日記にも「彌生軒はうまかった」と書き残しています。
谷崎にとって美味しさを追求するというのは、ただ表面的な味だけではありません。出汁の旨みといった隠し味が、本当の美味しさを出していることを谷崎は知っています。谷崎の文章に深みがあるのは、彼の食に対するこだわりにも支えられているのではないかと思います。食を通じて色々な感覚を研ぎ澄ましていったのです。
よく谷崎文学はフェティシズムの文学と言われますが、それは食べることにも共通します。熟成マグロを舌の上に乗せたときに、トロっと溶ける。その溶け方が女性の肌の溶け方のように感じる。食べることによって、食べ物が自分の体の一部になっていくように、書くことによって谷崎は自分のものにしていったのです。
それは和歌の世界と同じです。谷崎は3番目の妻・松子といっしょに和歌をたくさん作っていますが、和歌というのは、言葉にしたものが自分のものになっていくというものです。書いた途端に自分のものになっていくものなので、和歌のように書いた言葉を自分のものにしながら、谷崎は文章を書き続けました。
食について、荷風とのこんなエピソードが残っています。
谷崎は、多くの人が食事もままならなくなった太平洋戦争末期も、ほとんど食べ物に困りませんでした。1945年8月13日、永井荷風が岡山県の勝山(現在の真庭市)いた谷崎を訪ねます。荷風は東京大空襲で家を焼かれたため、友人を頼って岡山市まで来て、食べるものに困って、谷崎のところに来るのです。当時は、塩も米も配給でした。
8月14日、谷崎は荷風を迎えると、なんと「すき焼き」でもてなします。大卒の銀行員の初任給が80円という時代に、牛肉1貫(約3.75kg)を200円で買い、酒2升を地元の造り酒屋から譲ってもらってもてなすのです。
ただの小説家ではありません。あらゆる面において豊かさに満ちた人間だったのだろうと思います。