『刺青』を激賞した荷風

谷崎の文章を読んでみましょう。どんな印象を受けるか、ちょっと感覚を研ぎ澄ませて、できれば小さくても構いませんので、声を出して読んでみてください。
「己はお前をほんとうの美しい女にする為めに、刺青の中へ己の魂をうち込んだのだ、もう今からは日本国中に、お前に優(まさ)る女は居ない。お前はもう今迄のような臆病な心は持って居ないのだ。男と云う男は、皆なお前の肥料(こやし)になるのだ。………」
其の言葉が通じたか、かすかに、糸のような呻き声が女の唇にのぼった。娘は次第々々に知覚を恢復して来た。重く引き入れては、重く引き出す肩息に、蜘蛛の肢は生けるが如く蠕動(ぜんどう)した。
「苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめて居るのだから」
こう云われて娘は細く無意味な眼を開いた。其の瞳は夕月の光を増すように、だん/\と輝いて男の顔に照った。
「親方、早く私に背(せなか)の刺青を見せておくれ、お前さんの命を貰った代りに、私は嘸(さぞ)美しくなったろうねえ」
娘の言葉は夢のようであったが、しかし其の調子には何処か鋭い力がこもって居た。
「まあ、これから湯殿へ行って色上げをするのだ。苦しかろうがちッと我慢をしな」
と、清吉は耳元へ口を寄せて、労(いた)わるように囁いた。
「美しくさえなるのなら、どんなにでも辛抱して見せましょうよ」
と、娘は身内(みうち)の痛みを抑えて、強いて微笑(ほゝえ)んだ。
『谷崎潤一郎全集 第一巻』所収『刺青』より(中央公論社)
ドスの利いた、ねっとりとした文章ですね。初期の代表作『刺青』です。この小説の主人公は、腕利きの刺青師(ほりものし)・清吉です。清吉は娘を薬で眠らせ、その背中に蜘蛛の絵を刺(ほ)っていきます。初めはただ夢中で刺っていたのですが、最終的には自分が蜘蛛の虜になってしまいます。女性の肌の美しさ、背中の刺青の美しさの虜となり、自分が描いた蜘蛛の糸に引っかかってしまうのです。清吉が美に囚われていく様子を谷崎は見事に表現しました。
この『刺青』をはじめとする小説を激賞したのが、鷗外を師と仰ぐ永井荷風でした。荷風によって谷崎は作家として世に出たのです。