“極力削らない”。新たな世界の扉が開いた
ちょうどその年の秋、初めて正式発売されたのが、この酒のルーツとなった「純米葉月みのり新米新酒」。極早生の水稲新品種「葉月みのり」の本格デビュー前、その醸造試験を依頼されたのが原酒造だった。一度も扱ったことのない、未知の米。なぜ、あえて“米を極力削らない”という選択をしたのだろうか?
「葉月みのりは、ご飯としておいしく食べることを目的として開発されたお米です。量が少なく、貴重だったこともあり、“できる限り、そのまま使ってみよう”ということで精米歩合を90%としてみたそうです」
当初、できあがった酒は荒削りながら、それまでにない濃醇さとすばらしい香味を放った。「これは面白い酒ができた……」。強い甘みを身上とする葉月みのりをほぼ削らずに醸造することで、さまざまな成分が溶け出し、特徴的なうまみや酸味を引き出せることがわかった。
「濃醇なうまみをもちつつ、のど越しが軽やかさで爽やかさも感じる。そうしたところにも重きを置いて、毎年酒質をブラッシュアップさせてきました」
2度の大規模被災で廃業の危機に立たされた
日本海に面し、のびやかな海岸線が美しい柏崎市。江戸時代後期、この地に創業した原酒造は、「越の誉」の銘柄で柏崎を代表する酒蔵となった。しかし、これまで2度の大きな災害により、存続の危機に立たされた。1度目は、明治44年(1911年)の「柏崎大火」。強い海風に煽られた炎によって、町は壊滅的に焼き尽くされ、原酒造店の建物も全焼。すべての財産を失ったものの、4代目蔵元・原吉郎と蔵人たちの情熱によって再興された。
2度目は、2007年7月に発生した「中越沖地震」。柏崎市は震度6強の地震に見舞われ、甚大な被害を受けた。明治時代の大火を乗り越え、先人たちによって建てられた蔵は、見る影もなく全壊。当時、中学生だった彩子さんの記憶に、その光景はいまも刻まれている。
「2本あった煙突のうち、古い煉瓦の煙突のほうが蔵に倒れ、貯蔵タンクも瓦礫に埋もれていました。子どもながらにショッキングだったことを覚えています」
「絶対に再起する!」という7代目の思いが全員を牽引
仕込みシーズンではなかったため、従業員に死傷者が出なかったことは不幸中の幸いだった。彩子さんの父、7代目の原吉隆さんはすべてを失った状態から全員をまとめ、その年の冬にはプレハブの麹室をつくり、酒造りを開始。1シーズンも止めることなく、かろうじて酒の出荷を続けた。
「あのような状況のなかで、“こんなときこそ、絶対に質の悪いものは出さない”“出荷を止めない”という強い気持ちで取り組んだ父、蔵人全員の情熱はやはりすごいと思いました。先人たちの酒造りにかける思い、この土地の歴史も深く感じていただけるような、そして人に寄り添えるお酒を造り続けたい、といまは考えています」
200年の歴史をつなぎ、新しい酒造りに挑戦していきたい。彩子さんはそう語る。