皇太子を辞退し、小一条院に
天皇の座を退いた三条は、翌寛仁元年(1017)5月9日、42歳で崩御した。
父・三条という後ろ盾を失った敦明親王は、自ら皇太子の座を下りている。皇太子を自ら辞したのは、敦明がはじめてであった。
代わって、後一条天皇の同母弟で、道長の孫である敦良親王(のちの後朱雀天皇)が、同年8月9日に立太子した。
これにより、道長は天皇と皇太子の外戚の地位を手に入れた。
皇太子辞退の返礼として(山本淳子『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』)、同年8月25日、敦明は太上天皇(上皇)に准じた院号が下され、「小一条院」と号することとなった(ただし、樋口健太郎「敦明親王」によれば、太上天皇の尊号は奉られていない)。
さらに、同年11月22日には、道長の三女・藤原寛子(母は、瀧内公美が演じる源明子)と結婚し、道長家の婿となっている。
敦明は道長家の婿として、それまでの妃であった延子、および、延子との間に生まれた子どもたち、そして、岳父(妻の父)である藤原顕光のもとを離れ、寛子の近衛御門(高松殿)に入った。
延子の悲しみは深く、『小右記』寛仁3年(1019)4月11日条に、「心労云々」により、息を引き取ったことが記されている。
延子の父・顕光も、治安元年(1021)5月に78歳で亡くなった。
『栄花物語』巻第二十四「わかばえ」、巻第二十五「みねの月」によれば、顕光と延子の怨霊は、寛子に取り憑き、寛子を苦しめた。寛子は万寿2年(1025)7月8日、27歳で、この世を去っている。
敦明は寛子の没後も生き続け、永承6年(1051)正月8日、58歳で死去した。