敦明の出家騒動
同年(寛弘8年)10月5日、娍子所生の4人の皇子(敦明、敦儀、敦平、師明)を親王、当子、禔子の2人の皇女を内親王とすることが決まった(『権記』寛弘8年10月5日条)。
これにより、敦明親王をはじめとする娍子所生の4人の皇子は、法制上、次期皇太子となる資格を得た(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)。
だが、敦明親王を皇太子にしたくない勢力があるのか、彼は謀計に巻き込まれたようである。
渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』寛弘8年11月24日条によれば、娍子が三条天皇に、「敦明が出家しようとしている」と奏上した。
これは、道命と源心という僧による謀計だったという。
この出家騒動の真相は明らかではないが、道長や道長に近い者の中には、敦明親王を出家に追い込もうとする策謀があったと推定されている(編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』 樋口健太郎「敦明親王」)。
皇太子になりたくなかった?
翌寛弘9年(1012)2月、道長は娘・姸子を三条天皇の中宮に立后させた。
三条天皇は姸子を中宮としたものの、寵愛する娍子も皇后として立后させている。
亡父が大納言にすぎず、後見も参議に上ったばかりの弟・藤原通任のみの娍子が立后するなど、宮廷社会の常識では考えられないことであった。
この一帝二后により、三条天皇と道長の間には深刻な亀裂が入り、関係は悪化しという(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。
やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。
だが、道長は姸子が皇子を産まなかったことに落胆した。
三条天皇が重い眼病を患ったこともあり、道長は三条天皇に見切りを付けた。道長は皇太子の敦成親王(道長の孫)に譲位するよう、三条天皇に強く迫っていく。
三条天皇は激しい抵抗の末に、敦明親王の立太子を条件に、敦成親王への譲位を受け入れた。
こうして、長和5年(1016)正月29日、三条天皇は皇位を退き、敦成親王が9歳で践祚し後一条天皇となった。
同日、敦明親王も立太子した。敦明は23歳になっていた。
だが、本人は皇太子になりたくなかったのかもしれない。
『小右記』長和5年正月24日条には、敦明が、「皇太子に立つのを避けて、堀河院に移りたい」などと言い、母・娍子を深く嘆かせたことが記されている。