不安に取り憑かれ不倫を重ね、死を選ぶ

 さて、大正10年(1921)、4カ月にわたる中国旅行から帰った29歳の芥川は精神衰弱となってしまいます。

 そして、その翌年、文壇の重鎮である森鷗外が亡くなり、芥川は、ますます行き詰まってしまうのです。

 妻・文との間には大正9年に生まれた長男・比呂志をはじめ、次男・多加志、三男・也寸志という3人の息子がいました。

 彼らが成長するに従い、文章が書けなくなっていった芥川は経済的にも苦しくなっていきます。

 芥川の妻は、中学時代の友人・山本喜誉司の姪の塚本文という女性です。

 芥川は、24歳の時、美しく成長した16歳の文に一目惚れし、プロポーズの手紙を書きまくるのです。

 そのラブレターのひとつに、結婚したい理由が書かれています。

「その理由は たつた一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふことです。(中略)繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は 文ちゃんが好きです」

 二人は大正7年(1918)、田端の白梅園で祝言を挙げたのでした。

 しかし、文と結婚すると、芥川は人妻とばかり不倫をしはじめます。

 昭和2年(1927)に自ら死を選んだ芥川が、文にあてた遺書に、「僕は過去の生活の総決算のために自殺するのである。しかしその中でも大事件だったのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。」と書いてありました。そして「良心の呵責は感じていないが、自分の生存に不利を生じたことは後悔している」と続けています。

 秀夫人というのは歌人の秀しげ子のことです。

 大正10年(1921)にしげ子が産んだ男児が、芥川に似ているという噂が立ち、これに神経を苛まれ自殺の一因になったとも言われています。

 また、自殺した年の正月、姉・ヒサの夫である弁護士の西川豊の家が火事になり、その直前に家に多額の火災保険がかけられていたことから、義兄に放火の容疑がかけられます。偽証罪を犯して執行猶予中だった義兄は、「潔白を証明するため死を選ぶ」という遺書を残して鉄道自殺を図ります。残された家族の面倒や多額の借金が芥川の身に及び、芥川は、とにかく原稿を書いて、お金を稼がなければなりませんでした。遺稿『歯車』『或阿呆の一生』にはこの経緯が書かれています。

 このような生活の不安から死を選んだ可能性ももちろんあったでしょう。しかし、こういった私生活の問題は別にしても、文学者・芥川がぼんやりとした不安を抱き始めたきっかけは、大正5年(1916)12月9日、師である漱石が亡くなり、その葬儀で森鷗外と出会ったことだと思います。