芥川にとっての漱石、鷗外の存在

夏目漱石

 芥川は、明治43年(1910)に第一高等学校の文科に入学します。

 同級生には、のちに文学者となる久米正雄、菊池寛、井川(のちの恒藤)恭らがいました。また、1学年上だった山本有三、土屋文明も落第して同級生になります。この時期、芥川は図書館に通い、丸善で洋書を手に入れ、よく本を読みました。とりわけ好んで読んだのが、ヨーロッパの世紀末文学でした。

 大正2年(1913)9月、東京帝国大学英文科に入学し、大正4年(1915)には夏目漱石宅で教え子や若手文学者が集まってさまざまな議論をした「木曜会」に参加。以来、芥川は、漱石を敬愛し、「師」と仰ぐことになります。

 大正4年、11月『帝国文学』に、柳川隆之介の筆名で発表したのが『今昔物語』から材を取った『羅生門』です。

 さらに翌年、久米正雄、菊池寛、松岡譲、成瀬正一と5人で創刊した第四次『新思潮』創刊号に『鼻』を発表。これを漱石が賞賛しことが文壇デビューにつながったのでした。

 その後芥川は戯曲『暁』や『芋粥』、『手巾』などを次々に書き、漱石が「芥川君は売れっ子になった」と知人に話すほど、作家としての地位を固めていきました。

 しかし、大正5年(1916)12月、芥川が世に出るきっかけを作ってくれた漱石は急逝してしまいます。

 敬愛していた漱石の死を知って、心にポッカリどころか大きな穴が空いてしまった芥川は、呆然としたまま葬儀の日に喪服を着て受付係をしていました。たくさんの弔問客が続く中、目の前の芳名帳に「森林太郎」と書く人物が現れます。「あっ」と目を上げると、そこには森鷗外がいたのです。芥川はこの時、人生の転換点を迎えたのではないかと思います。

 それはどういうことだったのでしょう。

 森鷗外は、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長で、小説家としてだけでなく、ドイツ語や英語の文学書の翻訳や評論も手掛けていました。ヨーロッパ文学、美学などに造詣が深く、医学や歴史など広い知識と博物学的な巨人です。

 この巨人が、目の前に軍服を着て立っているのです。

 漱石という存在は、芥川にとって、もちろん「師」として大きな人だったに違いありません。しかし、漱石が書く小説の世界に比べて、鷗外の存在はさらに深く、さらに広く、大日本帝国を背負って立つ巨人として存在していたのです。

 芥川は、初めて会う鷗外に圧倒されたのではなかったでしょうか。

 この人は偉大な人だと強く感じるのです。そして小説家は鷗外のようにあるべきだと考えます。

 しかし、そう思ったことで、芥川は、だんだんと、文章が書けなくなってしまったのでした。次回、その理由を詳しく紹介します。