ブリューゲルは初期の作品で、100以上のネーデルラントの諺や、90種類もの子供の遊びを1枚の絵で図解しました。そこにはモチーフが「染み」のように画面全体にちりばめられ、混沌とした世界が表現されています。この特異な効果が「ブリューゲルの染み」と呼ばれるものです。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《ネーデルラントの諺》1559年 油彩・板 117×163cm ベルリン、国立絵画館

1枚の絵に85もの諺を描く

 ブリューゲルは下絵画家時代から、第1回で紹介した《大きな魚は小さな魚を食う》(1557年)など、諺を題材にした絵を好んで描いています。

 民衆の生活と密接している知恵や皮肉、風刺を含んだ諺は、中世に大流行しました。16世紀初めにネーデルラントのロッテルダムで生まれた人文主義者・文献学者のエラスムスが編纂した『格言集』には800もの項目があり、ルネサンス文学の代表作家フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』にも諺が多く使われています。当時のエリートは諺に関心があったのです。人文主義者と親交のあったブリューゲルは、彼らの精神を受け継ぎ、諺という言葉の世界を絵で表現しました。その集大成が《ネーデルラントの諺》(1559年)です。

 ブリューゲル研究の第一人者・森洋子氏によると、この絵は農村を舞台に当時の文芸作品などに引用されていた諺が85、推定も含めると100以上が描かれていることがわかりました。村には広場や畑、川、海岸、農家、納屋、城塞、絞首台などがあり、農民はじめ貴族、騎士、商人、修道士、職人、主婦など80人以上が登場しています。まさに圧巻の世界は「百科全書的」「図式的」と表現されます。

 代表的な諺をいくつか紹介しましょう。画面下方の中央にいる赤いドレスの女性が夫に青いマントを着せている場面は「夫に青いマントを着せる」という諺です。青は「裏切り」や「欺瞞」を象徴する色です。つまり妻が夫を裏切ったことを意味しています。

《ネーデルラントの諺》部分 「夫に青いマントを着せる」

 森洋子氏はブリューゲルが描いた諺と、江戸時代の諺を描いた絵の類似を指摘しています。主婦に殴打されて悪魔でさえ抵抗できないという、恐妻を風刺した諺「悪魔をクッションの上でしばる女」は、大きな妻が夫に馬乗りになって折檻している「蚤の夫婦」(歌川芳梅『臍の宿替』)や、「亭主を尻に敷く」(河鍋狂斎『狂斎百図』)、矛盾したことを言う人間を表した諺「二つの口で話す」は「舌を二枚使う」(三代目歌川歌重『人心浮世のたとえ』)、「鱈を捕るためにキュウリ魚を投げる」は、「海老で鯛を釣る」(鍬形蕙斎『諺画苑』)とよく似ています。キュウリ魚というのは小魚の名前です。江戸の絵を紹介できないのが残念ですが、とても面白い比較だと思います。

《ネーデルラントの諺》部分 「悪魔をクッションの上でしばる女」