紫式部の彰子評
紫式部が彰子のもとに出仕したのは、寛弘2年(1005)、もしくは寛弘3年(1006)の年末とされる。
彰子が18歳か19歳、紫式部が33歳か34歳ぐらい(生年諸説あり。ここでは天延元年(973)説で算出)のときのことである。
紫式部は、彼女の宮仕えの日記といわれる『紫式部日記』のなかで、彰子を「お気立ては非の打ち所がなく、洗練されて奥ゆかしくていらっしゃるのですが、あまりに控えめになさるご気性」と称している(宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』)。
彰子、父・道長を恨む?
定子亡き後もなかなか懐妊の兆しがみられなかった彰子だが、寛弘5年(1008)9月11日、21歳のとき、難産の末、一条天皇の第二皇子となる敦成親王(後の後一条天皇)を出産し、道長を喜悦させている。
彰子はさらに翌寛弘6年(1009)11月25日にも、第三皇子となる敦良親王(後の後朱雀天皇)を産んだ。
道長は、道長を外祖父とする敦成親王と敦良親王を一刻も早く皇位につかせるため、一条天皇に譲位にするように、圧力をかけていくことになる。
皇子を二人も産み、彰子もさぞかし安堵したことだろうが、それもつかの間のことであった。
寛弘8年(1011)5月、一条天皇が病に倒れてしまったのだ。
同年6月13日、一条天皇は皇太子であった36歳の居貞親王(冷泉天皇の第二皇子。母は、段田安則が演じた藤原兼家の娘・超子)に譲位し、居貞親王は三条天皇となった。
皇太子になったのは、一条天皇が望んだ、定子の忘れ形見・敦康親王ではなく、彰子所生の敦成親王だった。
彰子は一条天皇の意を推しはかり、まず敦康親王を皇太子とし、彼が皇位についた後に、我が子である敦成親王に継がせれば良いと考えていた。
だが、道長は彰子に相談なしで敦成親王を皇太子としたため、彰子は父・道長を恨んだという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 服藤早苗「第六章 道長の長女彰子の一生 ◎天皇家・道長一家を支えて)。
同年6月22日、一条天皇は32歳で崩御する。彰子は24歳で夫を失ったのだ。
だが、彰子の人生は、これからが本番だった。